空蝉の部屋 飯島晴子を読む
〔 3 〕
小林苑を
『里』2011年4月号より転載
春山火事の男戻れり白襖 『蕨手』
前回に続き第一句集『蕨手』から。
春の強い風に煽られて山火事が広がったのだろう。その始末から帰ってきた男臭い熱っぽさを迎えるのは、なんの装飾もない間仕切りの白襖である。襖の白が際立つ一句。
冒頭に春が置かれたことによって、山火事に陰惨さは感じられない。戻ってきた男(たち)には少しうきうきしたところさえある。「ご苦労さま」と迎える家の女たちもうきうきしているかもしれない。災難は去ったのである。
作者はその光景を描写しているのだが、明らかに白襖の側にいる。同化していると言ってもいい。鎮火した安堵と興奮が非日常だとしたら、白襖は日常である。この立ち位置がいかにも晴子らしい。
山火事どころではない大惨事を三月十一日に経験したばかりである。それに続く出来事は、被災地の方々はもちろん、
日本中を非日常にしている。この稿を書いていても、どこか上の空である感が否めない。もっと別の優先すべきなにか、考えるべきなにかがあるような、落ち着かなさがある。
同時に、醒めていたいという思いも強い。溢れる情報から事実を読みとり、真実を知りたいということだけではなく、もっと本質的な生き物としての欲求のようなもの。そうして、生きるためのバランスを取っている気もする。
大正十年生まれだから、晴子は青春時代を戦時下という非日常の中に過ごした。終戦の年、晴子二十四歳。永嶋靖子による年譜に寄れば、昭和十七年、二十一歳で飯島和夫と婚約。婚約者は入隊し、晴子が二十五歳のとき帰還して結婚している。その間に、罹災、疎開を体験。結婚後も夫が結核となり、洋裁内職で家計を支える。
この年代の女性たちは、封建的家族制度や道徳観から自立をはじめた戦後第一世代だ。それまでも女性史にはさまざまな女性解放運動があったけれど、固有の背景を持たずとも、欲するか否かに関わらず、かってのようには生きられない時代がやってきていた。一人ひとりは、まだ古い殻の中にいたり、突出したりであったにしても、戦中戦後を生き抜いた女性たちに自立への思いが芽生え、そのことは彼女たちの生き様になにがしかにの変化を与えた。
ちなみに、大正十年生まれの女性たちをネット検索してみた。やはり、女性は少ない。評論家・エッセイストに犬養道子、十返千鶴子、バレリーナの谷桃子、貝谷八重子、女優に「寅さん」に出でいた三崎千恵子など。俳人ではと『鑑賞・女性俳句の世界』〔※1〕第四巻を開くと、一歳年上に野澤節子、津田清子、一歳下に河野多希女がいる。
「わたしが一番きれいだったとき」〔※2〕で知られる詩人、茨木のり子は晴子より五歳年下だが、< わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり 卑屈な町をのし歩いた > と 謳った。この人の代表作に七十三歳の時に書いた「倚りかからず」〔※3〕がある。
倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
晴子にも、「じぶんの耳目」「じぶんの二本の足」のみで立とうとする自我を感じる。最晩年の晴子の思い、自ら死を選んだことにも通じる倚りかかりたくはない「じぶん」。突き放した目とでも言おうか。
そんな目が、作句だけではなく評論にも健筆を揮わせたのだろう。次回は、評論を書く契機となったという『俳句研究』の文章にふれたい。
東京にも余震は続いている。原発被害も大きくなるばかりだ。俳句は読者に読みを委ねる詩形である。こんなときに読むからだろうか。揚句の白という沈黙が迫る。
〔※1〕『鑑賞・女性俳句の世界』全6巻 二〇〇八年
〔※2〕 一九五七年に発表 『茨木のり子詩集』一九六九年
〔※3〕 詩集『倚りかからず』 一九九九年
●
1 comments:
読みました。飯島晴子は前から気になって居た俳人です。小泉純一郎元首相の首相補佐官が飯島勲氏だったのも与って力がある事情かもしれません。(政治に興味があるので)
コメントを投稿