小川春休
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自分の頭の中では「朝の爽波」という題もすっかり馴染み、春といえばあけぼの、朝といえば爽波、という感じになってきたのですが、実際の爽波その人は結構な宵っ張りだったようで。爽波は知る人ぞ知る電話魔で、夜遅くにかかってきて、しかもかなりの長電話だったのだとか…。
さて、引き続き第一句集『鋪道の花』。今回は昭和22年から23年の句。22年2月に、結婚して京都に新居を構えています。そのことが窺われる句もちらほら見えて、萌。
夜濯をなかなかやめぬ妻を呼ぶ 『鋪道の花』(以下同)
当時は昭和22年、洗濯も手仕事であり、夜の闇は、今よりもずっと深い。部屋を隔てて、聞こえてくる夜濯ぎの水の音。妻を呼んだ理由までは分からないが、夜の闇に断続的に続く夜濯ぎの水の音は心細くもあり、自然と人恋しい気持ちを呼び起こされる。
籐椅子にひつかかりつつ出てゆきぬ
部屋に占める籐椅子の大きさ、それと外出へと気の逸っている人の立ち振舞い、そうした事物、動作や感情までもしっかりと踏まえながら、句の調子はあくまで軽やか。ぱっと見ユーモラス、しかしその実、句を構成しているのは知的な写生なのである。
波一つこえてボートの出てゆきぬ
漕ぐ力を最も必要とするのは、やはり、静から動へと転換する、漕ぎ出していく瞬間だろう。力を込めて最初の波を越えれば、後は勢いに乗って、漕ぎ続ければ良い。波と呼応する、連続した運動の中でのエネルギーの高まり。シンプルさと力強さのある句だ。
颱風のことを頭に家を出る
新聞かラジオのニュースで、知識として、今晩にも襲来する見込みの台風の情報を得たのだろう。見渡す限りの空にはまだ台風の予兆は見られないが、その奥に間違いなく巨大な台風が迫りつつある。そんなわだかまりのようなものを心に抱えての、出勤の景が浮かぶ。
かの人をここの炬燵に呼びたくて
心情の表出が率直で微笑ましい句だが、「かの人」と呼び、「ここ」と言い、遠近感・距離感が土台となっている。言うまでもなく、この距離感とは、物理的、精神的、両方に通じるものだ。多用されたか行音が句のリズムを形作っており、耳にも心地良い。
初鏡閨累累と横たはり
鏡に向かい身支度をしているが、普段とかなり雰囲気が異なる。どことなくこの「閨」が異様なのは、初詣のために日の出前から起き出して、辺りはまだ闇なのかも知れない。「累累」は一義的には視覚的な意味だが、これまで連綿と受け継がれてきたものをも思わせる。
妻と我いちどきになり初鏡
幽玄とも言うべき〈初鏡閨累累と横たはり〉の次は、生活の活気に満ち溢れた句。結婚から間もない頃の句と思われ、所帯を持つこと、妻との新生活自体の新鮮さが、ありありと伝わってくる。感情を表に出した表現ではないが、気持ちの弾みは存分に伝わってくる。
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2012-02-19
朝の爽波 5 小川春休
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