〔週刊俳句時評58〕
あいまいで不都合な「自然」
松尾清隆
連日、ニュースは大雪の被害を伝えている。152人が犠牲となった〈平成18年豪雪〉以来の規模であるという。2日現在、死者56人、負傷者は700人を超えた。
だからというわけでもないが、昨年2月から橋本直氏が「若竹」誌に連載している「俳句の自然―子規への遡行」という論考を読みなおしてみた。
まず、連載第一回の
日本人が惹かれる「自然」の正体とは、なんなのだろう。そもそもなぜこのような素朴な問いをいま立ているのかというと、昨今の環境問題を視野に、俳句に自然を詠む人=自然を愛する人=自然破壊をしない思想をもちうる人、というような図式を文章化したものを散見することがあって、この百年の文明文化の所行を省みない気分のお気楽さ加減にショックを受けたからである。何かが決定的に間違っているという部分に心ひかれた。
つまり、「この百年の文明文化の所行」を確認する作業としての「子規への遡行」でもあるらしい。
第二回で明治15年開園の上野動物園に軽く触れたあと、第三回以降は明治22年に開通(新橋・神戸間)した東海道線について言及している。
第五回では
円筒形の建物の内部に、一続きの画が緻密に描かれており、立体模型や照明の効果も施されていて、中央の見物台から眺めると三六○度ぐるっと実際の風景を眺めているように見えるしかけになっていた。(中略)いわば最初から風景を風景として外部の一点から眺めるためにつくられたバーチャルリアリティ装置と、近代的メディアであるパノラマ館(明治23年、上野と浅草に開業)を解説したうえで、「東海道線は、視野におさまる世界をパノラマ化し、その車窓から見える風景を乗客と切り離す装置」と、鉄道が担った「近代の認識装置」としての役割を指摘して「いわゆるリアリズムの土台になりうる文明」と位置づけている。
第六~九回では「自然」という語の多義性と定義の曖昧さ、子規の「写生」に対する今日の理解のされ方について検証し、
ありのままに写すことを写生だとする子規の言を単純な言葉への置換のように理解することには慎重であるべきだ。子規の写生はいわゆるリアリズム(写実主義)と同じではないように思われると結んでいる。
ここまで読んで、なんだか、連載開始時の「日本人が惹かれる「自然」の正体とはなんなのだろう」というシンプルな問いへの答えとはだいぶ離れてきているのではないかとも思われた。
第十、十一回では子規自身の病に対する意識の持ち方について考察がなされている。
このなかで示唆的だったのは
生物として病むということを、自然のものとし、さらにあるがままに受け入れられるかといえば、病んだ当人の自意識は一様ではあるまい。風邪を引いただけでも、意識の上では健康時とくらべて不自然だと感じるだろうという箇所。
なるほど、病や死というものは人間が生物であり、自然の一部であるということを否応なしに突き付けてくる。一個体としての人間を「自然」の縮図として見ることで、なんとなく「自然」にまつわる問題の概略がつかめてきた気が。
人間とは、文明の進展によって自らを自然と切り離したようでありつつ、結局は自然の産物であることから逃れ得ない存在である。そんな自己矛盾をかかえた人間が生み出した概念であるゆえに「自然」は分かったようで分からないのだ。
たしかに子規は、「自然」ということを考えるとき、最高のサンプルであるかも知れない。
最新の第十二回が掲載されているであろう「若竹」2月号はまだ読んでいないのだが、今後の展開、着地がどのようになされるのか、大いに期待している。
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