〔週刊俳句時評59〕
355日目
生駒大祐
〇.
俳句3月号を、落手しました。まっさきに、「特別対談 自然とどう向き合うか 小澤實×高野ムツオ」を、読んだ。その次に、「アンケート 『俳句の未来に向けて』」を読みました。
一.
まず、僕の現状認識を述べます。今回の地震は多くの人間に影響を与えた。その影響は大きく言っていくつかに分けられます。
1. 地震とそれによって引き起こされた津波などによる、人間の怪我や死などの直接的な影響。
2. 地震とそれによって引き起こされた津波などによって人工物が破壊されたことによる生活への影響。原子力発電所の破壊による被害もこれに含まれる。
3.地震とそれによって引き起こされた津波などの映像や原発報道などの震災情報を受け止めた人間への心理的な影響。
いわゆる自然が被害に直接的な意味で関与しているのはほぼ1の範囲に収まります。今回の震災による死者は15,848人(警察庁発表、2012年2月10日現在)で、たとえばインフルエンザによる年間の死亡者数は変動が大きいものの1000人前後であることを考えると、自然が齎した死者数としては近年にないものだと言えるでしょう。
しかし、今回の震災で大きかったのは2およびそれに付随する3の要素です。こちらは僕の認識では人間による人間への被害(人災)であり、自然がきっかけにはもちろんなっているものの自然が直接齎した影響ではない。
どうでも良い定義論をしているようで、僕はここに違和感を覚えてならない。あなたは本当に、自然が時に人間を殺すものだとご存じなかったんですか。「再認識」とか「思いを新たに」などと言い換えても、意味がないと思うんです。なぜ、地震が起こった→国中が(震災による死者を1人でも生んだ都道府県数は12。二桁以上の死者を記録した都道府県数は5)衝撃を受けた→自然を詠むこと・季語についての意見を22人に聞く(うち、震災による死者を1人でも生んだ都道府県出身・在住の俳人数6)という流れが生まれたのか。
まあそれでもいいんです。ところで、20歳~24歳の死因の50%が自殺であることはご存じですよね。それならいいんです。関係ないでしょうか。関係ないならそれでもいいんです。
二.
長谷川櫂さんの震災句集を新宿紀伊国屋で買って帰りの電車の中で読んだとき、「わー」って思いました。「わー、大変なことになったな」と。そんな感じです。俳句ってここまできてるのか、と。
今回の特集の話に戻ります。
ある意味で、俳句の、あるいは、文学の、ある種の可能性を奪っているのは、以下のような思考ではないかと感じました。
(「双子なら同じ死顔桃の花 照井翠」に対して)
高野 悲惨で絶望的でどうしようもない世界ですが、<桃の花>が取り合わされ、作者も読者も心が救われるのではないでしょうか。(下線は引用者による)
もちろんこの対談は非常に示唆深い発言をいくつも生んでいます。非常に意味のある対談だと思います。この言葉も定型文的に出てきたのかもしれません。ただ、僕はこのある種の鈍感さに驚いていることは確かです。僕は俳句で人を救えるとは信じていません。勝手に誰かが誰かの俳句を読んで救われることもある。しかし、それは必ずしも言葉の詩的な練成度とは比例しないのではないかと思います。つまりは、良い俳句であれば、必ずたくさんの人がそれを読んで救われるとは思えない(さらには、ある人にとって良い俳句がたくさんの人にとって良い俳句であるとも限らない。当然ですが)。
多くの人を「感動」させることくらいは、意識的にやることができる、と思う。実際、ある一定のメソッドで大衆小説なり大衆映画なりはそれを行っている。
でも、人を「救う」ことって、もっとステージの高いことだと思うんです。簡単にその言葉を使ってしまうと、時には致命的になるくらいには。
もう一度言います。俳句が、もっと言うと人が、そんなに簡単に人を救えるとは思えない。
そんな中で、俳句を俳句のままに、人を救う「道具」にしないために、必要な思考は、一見その逆のようにも思える、このような言葉だと思います。
(「さわ先生カニに変身あいに来た せとひろし」に対して)
小澤 せと君の句、いいですね。<さわ先生>が動かない。(下線は引用者による)
この一見突き放したような言葉。4歳児の言葉に対するには大仰で、いかにも俳句ずれしたような言葉。
しかし、それが必要なんだと思います。どんな俳句に対しても、不可情報に惑わされず、本当に一句として優れているかどうかを、経験に裏打ちされた審美眼で客観的に眺める。震災の前には確かに存在したこの行為こそが、震災後の俳句を、俳句のままであり続けさせるのだと。
僕はそう思ったのです。
●
0 comments:
コメントを投稿