小川春休
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爽波作品全体の中で、猫の句と犬の句はどちらが多いのか。何となく、爽波は猫派というイメージを持っていたのですが、『鋪道の花』収録句で見ると、猫3句、犬3句、意外にも同数。今回鑑賞した〈冬空や猫塀づたひどこへもゆける〉の印象が特に強いから、そういうイメージを持ってたのかなぁ。ちなみに本稿のタイトルロゴ、この「塀づたひ」の句をイメージして作ってみました。お気づきの方、いらしたでしょうか?
さて、引き続き第一句集『鋪道の花』。今回は昭和23年から24年の句。この時期の爽波は、健康を損ねたり転勤したりホトトギス最年少同人になったりと、年譜を見ただけでも公私ともに多忙な様子が伝わってきます。
春の猫戻りの足を運びつつ 『鋪道の花』(以下同)
「歩く」ということだけで己を充足させ得る猫は「凄き生き物」であるが、掲句もまた、「歩く」ということだけで一句が充足しているのである。ディテールを描写する言葉の使われ方もその歩み同様に優雅。猫好きというより、猫への憧れのようなものまで感じさせる。
末黒野に雨の切尖限りなし
早春の野焼きの後の末黒野、見渡す限りの荒涼とした景だ。そこに勢い良く降り出した雨、背景となる黒との対比からか、いつにも増して鋭く目に映る。まるで地に、突き刺さるかのよう。降り注ぐ様を「雨の切尖」と見た着眼も句調も、力強く引き締まっている。
種痘する机の角がそこにある
何とも捉えどころのない句だが、予防接種をうけるときのことを思い出すと、その気分は自ずと分かる。真正面の、注射してくれる人を直視し続ける訳にもいかず、かといってあからさまに遠くを見ているのも変。やむなく、まじまじと机の角など見入ってしまう。
紫陽花に吾が下り立てば部屋は空ら
騙し絵のような下五の展開に驚かされる。この句の肝は、視点の場所。ついつい単純に「吾」を句の中心として読んでしまいそうだが、本当の視点は、もっと広角で景を捉えているのである。写生の根本はやはり見ること。その視点をどこに据えるかは、とても大事。
冬空や猫塀づたひどこへもゆける
食べることも寝ることも生き死にも当然のように背負って、冬空の下、塀の上を悠然と歩む猫。「どこへもゆける」には詠嘆の気分が濃く、猫を見送る眼差しが感じられる。思い切った字余りだが、五七五とはまた別の、一種独特のリズムを生み出している。
ともしびの色定まりて春蚊出づ
点けたばかりのともしび、最初は弱々しかったその光も、時とともに徐々に強まり、ある一定の明るさの光を放つ状態に至る。そうした下地が整った上で、春の蚊がまかり出てきたのである。ともしびのほのぼのとした明るさ、あたたかさがいかにも春らしい。
梅雨はげし傘ぶるぶるとうち震ひ
まるで台風のような梅雨の雨。傘が「ぶるぶる」打ち震えるぐらいだから、きっと風もかなりのもの。これでは傘も役に立たない。ただし、句の叙述はあくまで雨の激しさに終始していて、特に困っている心情は読み取れない。逆に、驚くほどの豪雨に弾む童心さえうかがえる。
春蚊の句、私の頭の中では、〈冬空へ出てはつきりと蚊のかたち〉(岸本尚毅)と好対照を成しています。
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2012-02-26
朝の爽波 6 小川春休
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