2012-02-05

リアリティーの獲得 『今、俳人は何を書こうとしているのか』を読んで 野口裕

リアリティーの獲得
『今、俳人は何を書こうとしているのか』を読んで

野口 裕


フェースブックを読書記録として使い始めている。ただ、ツィッターにしろ、フェースブックにしろ、書き込む際の画面処理がうまく利かないようで書きにくいことはなはだしい。書き疲れたので若干の補足をここに書き込む。


【フェースブックに書き込んだこと】

邑書林ブックレット『今、俳人は何を書こうとしているのか』(新撰21竟宴シンポジウム全発言)読了。ここ三年ほど続いている年末の恒例行事の第一回目の記録。たとえば、関悦史のこんな発言は記憶に値する。

「言いたいことがあるということと自然が出てくるというのは非常にちょっと相関関係がありまして、アニメの背景画を考えて貰うとわかるんですが、スタジオジブリのアニメ、『となりのトトロ』でも『千と千尋の神隠し』でもいいんですけど、あそこら辺の作品として自立して、ある人生観なりなんなりを訴えたい、ちゃんとみてくれというものを描くときは背景画像がかなりびっちり美術品みたいに描かれるわけです。それに対してこれはもう親子で気楽に楽しんでくださいというスタンスの『ドラえもん』とか『クレヨンしんちゃん』とかだと、背景が非常に記号的に簡略化されるわけです。」。
例として『もののけ姫』が出てこないあたり、その場の思いつきでしゃべっているうちに思わぬ鉱脈にぶつかった感があり、かえって臨場感を感じる。


【以下、補足】

上述の問題意識は、大塚英志のマンガ論に通じる。どの本だったか書名は忘れたが、初期のアニメーション、ミッキーマウスであったりポパイであったりが敵にやっつけられてぺちゃんこになっても(比喩でなく、画面上で実際に平たくなっている)、ポパイであればホウレンソウを食べるなどして、しばらく経つと元通りの立体的な身体を取り戻してしまうような描写が登場する。このような世界から出発したマンガの世界では、キャラクターは不死身である。不死身であるがゆえに死ぬことが出来ず、血を流すような場面でのリアリティーを獲得し得ない。これを克服することが、手塚治虫を始めとした戦後マンガの格闘するテーマであった。というような論旨であったと思う。この論旨は大塚英志だけでなく、「未来少年コナン」での主人公の不死身さにクレームをつける押井守の考え方にも共通すると言えるだろう。

これもうろ覚えで仁平勝の言ったことを図式化してしまうと、俳句の「季語+それ以外」において、季語は意匠としてはたらく。リアリティーの獲得は「それ以外」の部分が負う。この構造は、戦後マンガの格闘史とパラレルに俯瞰することができるはずだ。

説話文学を口承で受け取ったかつての受け手に対するのと、主に活字から情報を受け取る今日の読み手に対するのとでは、言葉としていかにリアリティーを獲得するかの方法は異なってくる。残酷なグリム童話とか、元の山椒大夫と森鴎外のリライトしたものとの差は、そんなところにもあるのだろう。

関悦史の発言は、豊里友行の句について語るうちに出ている。その後、金子兜太の句に話は及ぶが、秩父音頭のリライトに関わった金子伊昔紅を父に持つ兜太が俎上に出てくるのは、偶然ではないかも知れない。


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