2012-02-12

親切で誠実な批評 樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む 西原天気

親切で誠実な批評
樋口由紀子『川柳×薔薇』を読む

西原天気

『豈』第52号(2011年10月)より転載


樋口由紀子は、親切で誠実な書き手である。とりわけ、批評の際には、その特質が際立つ。評言のどこにも目眩ましがなく、水増しもない。「わかりやすい」ことを扱うわけではなく、むしろ「わかりにくい」こと、こんがらがってしまうことを扱うのに、ていねいに語を重ね、読者になにがしかの理解や納得をもたらしてくれる。

それは『川柳×薔薇』の巻頭〈はじめに〉を読んでも明らかだ。川柳と自分の関係から解き起こす誠実。この冒頭部分に、樋口の批評の要点がすでにちりばめられている親切。私たちは、安心して、樋口の語ることを聞きさえすればよいのだ。

手ぶらで訪ねた客にも、何かを持たせて帰す。川柳というものについての知識もなく、ましてや、樋口の扱ういわゆる難解な川柳など読んだことのない読者が(私もこの手の読者に近いからこそ、こう言えるのだが)いきなりこの本を読んだとしても、なんらかのスーベニールを手にするだろう。


さて、ここで、やや前提的で、また茫漠としたことを言うのだが、言葉《によって》感じること、言葉《を》感じること、この二項対立は、川柳や俳句の書き手・読み手の世界に広く横たわる。 前者においては、言葉は伝達の道具であり乗り物。そこで伝えられるもの、搭載される荷物とは「意味」であったり、「思い」であったりする。後者においては、言葉そのものが、愛や戯れの対象である。この二項の両極で、あるいは中間で、あるいは時と場合によって二項のあいだを揺れつつ、書き、読んでいる。

言葉から書いていく」(4頁)と明言する樋口は、言うまでもなく後者。しかし、ここで困難が持ち上がる。「思い」はともかくとして、「意味」という代物は言葉にとって抜き差しならず、「どう振り払っても言葉には意味がくっつき、べったりと張り付いている」(134頁)。その「意味」という代物に、どう対処するというのか。

意味のネジをもう一度きつく締めて、意味を出しすぎることのマイナスをプラスに変換していく」(6頁)と樋口は言う。「川柳を書くことによって、意味がきゅっきゅっと音を立てる」(同)。この「きゅっきゅっ」は、なんだかとてもよくわかる。樋口の川柳を読んだときに感じた言葉と世界の違和、といってもけっして不快ではない軋みのような感触が「きゅっきゅっ」であり、これは作者樋口によってはっきりと企図された効果だったのだ。

一方、「私性」という厄介な事柄、川柳では俳句に増して伝統の大きな成分を占めるこの「私性」は、「言葉派」にとって無視できない課題となる。言葉《によって》ではなく、言葉《を》、愉悦の対象にするなら、「私性」は邪魔にもなろう。そのあたりのことは、〈川柳における「私性」について〉(14頁~)でていねいに論じられ、現実の「私」に制限されない広義の私性、表現としての私性へと向かうべきであると結論づけられている。

『私』の思いを書くという殻を言葉で破り、『私性』を言葉で、もっと開拓していけば、もっと多種多様な川柳が生まれ、川柳はもっと魅力ある場になっていく。言葉を生かせば、思いに縛られた『私』ではなく、もっと自由な『私』を出現させることができる」と樋口が書くとき、「出来事」を機軸にした時実新子の「私性」からの発展とも離脱とも読める。

言葉にまつわる意味、川柳にまつわる私性。これらの大問題についての樋口の見解は、本書の冒頭近くに並べられた〈川柳における「私性」について〉(14頁~)と〈中村冨二の川柳〉(26頁~)に凝縮されているように思う。読者は、まずこの二つの論考をゆっくりと読み、ひと息ついてから、各論ともいえる句集評や作家論へと読み進むのがいい。意味の問題、私性の問題は、具体的な作品を前にして実践的に繰り返し語られることになる。

例えば、草地豊子を、「(言葉に意味が張り付いてしまう)その不快を逆手にとって、まっすぐに言葉を引き受け、作者の意味づけを行っている」と評し、さらに「川柳が言葉のつながりによって生じる意味を愛する文芸であるということを彼女の作品で確認することができる」(135頁)と書く。

加藤久子を評して、「(…)ゴールの旗の横をすり抜けて、どんどん進んでいく。みんなは旗の位置でガッツポーズを決めて、大玉を止めているのに、彼女は自分の納得のいく場所に大玉を運ぶまで競技をやめない。(…)その結果、大玉は転がせば転がすほど弾みがつき、言葉の潜在的エネルギーを引き出す」(125頁)と論じるなど、意味と言葉と川柳の問題は、きわめて具体的な批評の言説となって示される。

一方、松永千秋の川柳について、「(…)仕上がった作品は不思議なほど手垢はついていない。それは彼女が自己の経験を水戸黄門の御印籠のように使用していない、つまりは『私性』のありように演劇的な小細工をしていないためだと思う」(140頁)と評するなど、私性という課題をさまざまな層・さまざまな局面に繰り返し浮上させる。

また、小池正博を、「経験を元にして書くのではなく、知識から判断して作り上げる。史実や教養などをスルーさせて、主観を省いてしまう。観照、つまり知恵を持って事物を想像、創造する」(101頁)と論じる箇所では、《私》の多元性・多様性を小池作品に見てとっているようだ。

ただ、こうした樋口にとって近しく親しい川柳作家を論じるときの筆致・口吻の樋口らしさが、俳句・俳人を扱うときにはやや薄れ、「らしくない」と感じるのは、私が俳句の近くにいるせいだろうか。攝津幸彦については、樋口が取り上げた多くの川柳作家と同じノリで語ってほしいところだが、なにかどうも、〝よそいき〟の感じがする。

攝津俳句に気持ちよく翻弄される樋口、それはそれで読んでいて興味深いが、〈意味がきゅっきゅっと音を立てる〉川柳とそれほど勝手が違うとは思えない。だが、まあ、そのあたりに川柳と俳句の微妙なノリの違い、空気の違いのようなものがあるのかもしれない。

ひとつ思うのは、川柳はマジメ、ということだ。樋口は、中村冨二を「真面目なのかふざけているのかわからない」(27頁)と書いているが、俳句愛好者の私から言わせると、とことんマジメです。中村冨二は、冗談を言うときでさえマジメです。ちなみに、俳句はもっといいかげんで、フマジメ。私自身は、川柳のマジメも俳句のフマジメもどちらもそれぞれの魅力だと思っている。

さて、ここまで書いてきたが、書評というにはまとまりを欠き、また、この本の魅力を伝えきれているとも思えず、誠におぼつかないことだが、要は、言葉の飛距離に思いを馳せ、言葉のおもしろさ、言葉の華やぎを、いたってマジメに見つめ続ける人の言葉は、私たちにとって貴重なもの、ということなのだ。樋口の誠実な批評、心優しい解きほぐしは、本書のいたるところにある。風通しがよく、なおかつ豊饒な批評に満ちた書と、最後に念を押すように絶賛しておきたい。


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