2012-03-11

朝の爽波 7 小川春休


小川春休







7



つい先日、『秋草』という俳誌をご恵贈いただきました。初めてのことです。波多野爽波・田中裕明の流れを汲む俳誌ということで、爽波・裕明作品の鑑賞の連載あり、会員の掲載句にもまた爽波作品に通じるエッセンスを感じさせるものあり。ご恵贈くださったのは、もしかするとどなたかが本稿を目にして、「ここにも一人爽波ファン」と認めてくれたのでしょうか。嬉しいことです。よしがんばるぞ。

さて、引き続き第一句集『鋪道の花』。今回は昭和24年から26年の句。多忙な生活を続けていた爽波、とうとう胸部疾患のため自宅療養を強いられますが、翌年には、銀行員としてスクーターで外回りするまでに回復してます。若い若い。


茶摘女の笠の揺らげば移るなり  『鋪道の花』(以下同)

茶摘みという作業、眺めてみると肝心の手元は茶の木の枝葉に隠れ、茶摘み女の表情も笠に隠れて見えない。それでも観察して「笠静止=作業中、笠移動=次の茶の木に移行」という法則を得たのであろう。笠の静止から移動へと移る一瞬を見事に捉えている。


家を離れ濯ぎゐしとき初嵐

以前夜濯の句を鑑賞したが、やはり当時の洗濯は手作業、しかも家から少し離れた水場での仕事であったらしい。掲句、場面と動作とを結びつけて描き出し、景を確かなものとしている。水仕事に掛けるエネルギーと初嵐のエネルギーの双方が静かに満ちている句。


日脚伸び伸びて雛の日に至る

季重ね、しかもその二つの季語を引き伸ばして用いており、この句の内容自体が、ほとんど季語そのものと言える。しかし一句全体の言い回しが、季語を肉付けし、実感のあるものとしている。「ひ」音と「の」音の響きが優しく、ついつい口ずさみたくなる句。


四肢震ふまでに昼寝を欲りつつも

本人はいたって真面目のようだが、周りの人には奇異に映ったに違いない。「四肢震ふ」ぐらいだから体調が悪く見えた可能性もある。強烈な上五に対してそれ以外の部分、特に結句は穏やかな言い回しであり、過度の戯画化を避けるバランス感覚が窺われる。


傘ささぬ子の現れし冬の雨

句意は明瞭、そして実際にも遭遇し得る場面だが、こうして言葉になると、不可思議なものを内包し始める。傘をささぬ子供は、大人とは異質な、理解の及ばぬ存在として、冷たい雨の中にふと現れる。そういう点では句集冒頭の「見知らぬ子」と共通するモチーフ。


腹へつてくれば辛夷の昼となる

腹時計という言葉もあるが、腹の減り具合で昼の訪れを知ることには何の変哲もない。そこに「辛夷の」という言葉が挟まることで、真昼の日差しの明るさと、若々しい空腹感とを印象付ける。ここでは、季語が、それ以外の部分の内容を支える働きをしている。


噴水に佇ち手をかくるところなし

目に映るものとしては、勢い良く噴き上げる噴水と、立ち尽くす人。この人、手を掛ける所を切実に求めているが、その背景にはやはり、夏の気の遠くなるような強烈な日差しと暑さが思われる。その心情と、機械仕掛けの噴水の勢いとの対比が鮮明である。



本稿は、twitterにおいて毎朝一句鑑賞を投稿したもの一週間分から成り立っています。ですので、一句毎の鑑賞文は、俳句作品と作者名も合わせて140字が上限(twitterの字数制限)。そして、一句鑑賞の投稿を、他の人がお気に入りに登録してくれたり、リツイートしてくれると、少し元気が出る、という仕組みになっています。「金魚屋」の句を鑑賞したときは、「澤」の小澤實主宰から「ぼくは車を引くスタイルのものを見た記憶がある」というツイートあり、竿で桶を担いだ昔ながらの金魚売り(の扮装)の白黒写真を貼り付けたツイートあり、また楽しからずや、というtwitterならではのやりとりもありました。

さて、引き続き第一句集『鋪道の花』。今回は昭和26年から27年の句。病気、転職、転勤等々で賑やかだった年譜が、すーっと簡潔な記述に変わっている時期。仕事や生活も少し落ち着き、軌道に乗ってきたのでしょう。


秋風の中や児の瞳に映れるもの  『鋪道の花』(以下同)

簡単に言うと写生は「よく見ること」だとすれば、よく見ても目には見えない、しかし確かにそこに存在するものを写生の対象とするにはいかにするべきか。その答えの一つが掲句。見えないはずの何かを察知した、センサーとしての「児の瞳」を描写している。


爽かに思ひ返して好きになりぬ

誰を、何を、好きになったのかはさっぱり分からないが、感情の動きとしてはよく分かる。不快指数の高い時には、嫌な面が目に付きやすい。それが後から「爽かに」思い返すと感情が一変する。悪い感情を引き摺らない精神の持ち主もまた、爽やかと言えよう。


真青な空より風邪をひきこみし

冬の真っ青な空は、なまじ雨空や曇り空よりも、張り詰めたような寒さに満ち満ちている。どこで貰ったのか分からぬような風邪ではなく、はっきり「空より」と断言するところが若々しく、この句に力を与えている。それにしても、何とも強力そうな風邪だ。


湯ざめして鏡に命こめてをり

湯冷めをしながらも、何か鏡に向かって必死に身支度を整えている。その必死さを「命こめてをり」と描写しているが、人の行いのひたむきさ、はかなさとともに、鏡というものの不思議さ、怖さも感じられる。何やら人の生命力を吸い込んでしまうかのような…。


ちよと家を出て金魚屋にあひしこと

金魚売りには、竿で桶を担ぐスタイルと、車を引くスタイルとがあったらしいが、掲句はどちらだろうか(私はどちらも実物未見)。この偶然出くわした感じは移動販売の金魚売りならではで、軽妙な明るさとともに、足取りの軽やかさも句に表れ出ている。


金魚買はず主婦らいづれも豪のもの

金魚売りを取り巻く主婦ら、金魚の器量のことなどで盛り上がってはいるが、誰一人財布の紐を緩めない。金魚がいかに可愛かろうと、その決意は揺らがない。主婦らの生活者としての逞しさを讃えながらもどぎつくならないのは、微量のウィットのおかげ。


板前の水を打つにも器用な手

水の打ちようにも、器用・不器用がある。おそらく桶の水を柄杓に掬っては、手首に軽くスナップを効かせて、思いの外遠くまで水を飛ばしてゆく。板前の白を基調とした出で立ちとも相俟って、いかにも涼を感じる景だ。板前の、繊細な手つきも目に浮かぶ。

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