虫・石・星〔断章風に〕
喜田進次句集『進次』を読む
西原天気
喜田進次句集『進次』(2012年2月14日/金雀枝舎)。別冊として詩集『死の床より』。喜田進次の24歳から享年55歳までの句作を収録。遺句集にして全句集と解していいのだろう。
編年により8章に分かれる。
Ⅰ 1976-79 24-27歳 88句
Ⅱ 1980-81 28-29歳 93句
Ⅲ 1982-83 30-31歳 99句
Ⅳ 1984-85 32-33歳 92句
Ⅴ 1986-87 34-35歳 70句
Ⅵ 1988-89 36-37歳 63句
Ⅶ 1990-91 38-39歳 49句
Ⅷ 1996-08 44-55歳 92句
計 646句
20代後半から30代にかけての旺盛な句作ののち、40代前半に空白期間、句作再開後を収める第Ⅷ章は12年間で92句とペースが落ちる。
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句集を読むときはノート等に句を書き抜く。数えてみると110句以上になった。見開きに一句という驚くべき確率。
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句の並びのなかに喜田進次の短文が差し挟まれる。編集は巧みで、散文と句作が凭れ合わない。とはいえ、読者にとっては短文が「ヒント」になりうる。としても、これを「解説」とせず、句を読むことが私の当面の課題。
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さて、この『進次』、俳句表現と作者のあいだの軋みのようなものが随所に。
どんぶりの中に寝冷えの金魚かな 〔Ⅰ 24-27歳〕
鴉・かもめ・絶壁・冬の骨を見る 〔Ⅱ 28-29歳〕
蚯蚓ぶち切る左の方が観音寺 〔Ⅴ 34-35歳〕
こうした引用は、しかし、作者の一面の、そのまたごく一部分しか伝えない。
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句集を語ることは、部分を語ることでしかない。書評は、梗概やら寸評のような顔をしているが、実際は、箪笥一棹の角の木目ひとつ、あるいは鉄の環の模様の先端だけを語るにすぎない。
(手短に的確に書ききったような顔をした、わかったような句集評を信用してはいけない)
(…とは、この一文・拙文の言い訳というだけではなくて)
俳句にある程度の期間、ある程度の熱意をもって携わった人が、ひとつの覚悟をもって編むのが句集であれば、どの句集もそれぞれの豊かさをもっている(たいていは)。書評・句集評がきれいに書ききれる・紹介しきれるほど貧しくはない。
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俳句表現との軋みとは、ひとつには、詩(ジャンルとしての散文詩)と俳句のあいだで揺れるようなものか。
例えば「円」。
作者の外からもたらされた「円」という概念が、作者の観念として句の展開に寄与する。
日傘ひらけばシベリアも面影も円 〔Ⅴ 34-35歳〕
「円」が日傘の把握・描写にとどまらず、不定形の「面影」にまで働きかけようとする。こうした作用はいわゆる「俳句」よりもむしろ「詩」に属する作用か。
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例えば「大きい」。
おぼろ夜のうごかざる水巨きかり 〔Ⅰ 24-27歳〕
ねむるとき大きな柿が過ぎゆけり 〔Ⅰ 24-27歳〕
泉ありけり大きな息をして帰る 〔Ⅱ 28-29歳〕
真夜中の大きな無風白桃噛む 〔Ⅳ 32-33歳〕
把握・描写よりもむしろ「大きさ」そのものが体験の成分。
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幕間的に。
俳句世間的な物言いは、早いうちに済ましておくのがいい。この句集のおよそ85パーセントを占める24歳から30代の句作。いわゆる「若手」、俳句基準ではなく世間的にも「若い」といわれる時期に、すでに生硬さを脱していること、太く強い語の感触を使いこなすとともに、俳諧的な自在さも備えていること、さらににいえば句群のトータル=「作家性」が早い時期に確立されていることに、やはり驚いてしまう。
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「石」は繰り返し現れる。
灼け石の匂ひと言はれても知らぬ 〔Ⅰ 24-27歳〕
石になり蟋蟀になり人になり 〔Ⅰ 24-27歳〕
ぬれてゐる水着に大理石の匂ひ 〔Ⅱ 28-29歳〕
陽炎や眼は石の奥へ奥へ 〔Ⅲ 30-31歳〕
綿虫に石の大きな息ありぬ 〔Ⅵ 36-37歳〕
石が宿す匂いや感触へと、句が向かう。
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句を多く引く句集評は、よろしくない。それを読んだ人が句集を読んだ気になってしまうから。抑えよう。
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詩に傾く俳句、というわけではけっしてない。詩との距離感を冷静に測る態度。
六月のくらき畳や羊羹切る 〔Ⅳ 32-33歳〕
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あるいは、
椋鳥にあけつぱなしの財布かな 〔Ⅲ 30-31歳〕
ビートルズが気絶してゐる秋刀魚かな 〔Ⅲ 30-31歳〕
「俗」へと悦ばしく手を延ばすかのような。
空爆してゐてあたたかな太股がある 〔Ⅷ 44-55歳〕
軽妙。
馬刀採りに歩いてゆける時間かな 〔Ⅳ 32-33歳〕
放哉のいれものに地中海と小便 〔Ⅷ 44-55歳〕
飄逸。
詩との距離を見定めつつ、俳句の領分に遊ぶ。しかし、作者の意図・意思は始終揺れているようでもある。
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句と作者名。この一般的な話題。さらには作者にまつわる情報(パラテクスト)。別個に扱うか表裏一体か。
句集を読む際には、しかし、これらはどだい、一体でしか読みようがない。
(俗流テクスト論ではなく)
つまりは、句集『進次』を読むとは、喜田進次という「作者」を体験すことでしかないではないか、というだけの話。
(さりとて評伝的俳句解釈でもなく)
喜田進次という人の暮らし、生きた時間について、そのヒントを、俳句作品の外にまで(まるで綿密な捜査のように)探し求める必要はない。
書かれたことを読むこと/書かれていないことを読まないことによって、作者という人間を度外視するでもなく、読みが限定されるでもなく、作者を体験する。
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一篇として編まれた句集『進次』の豊かさ。
例えば虫。
どしやぶりのとんぼの胴とすれちがふ 〔Ⅲ 30-31歳〕
地球まはりゆく蟋蟀がついてゆく 〔Ⅳ 32-33歳〕
星。
彗星の発端に絮一つ立ち 〔Ⅳ 32-33歳〕
枝豆を水のやうなる月に噛む 〔Ⅴ 34-35歳〕
猫の目に土星木星ゐて雷雨 〔Ⅵ 36-37歳〕
葱濡れて月光になつてしまひぬ 〔Ⅷ 44-55歳〕
天体に備わる肌理や湿度。
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(良き)作者とは、作者と私たちを包む「世界」の豊かさを、私たちにもたらしてくれる人のことだ。1冊の句集を読むこととは、その豊かさを経験することだろう。その豊かさは一様ではない。天国や平穏もあれば、苦さや軋みもある。
天国の反対は(劇的な)地獄ではなく、日常の屈託や退屈であったりする。日常を薄く包み込む不安であったりもする。それらはときに、まがまがしい口調を選ぶこともある。
それでも、それらをすべて含め、世界は世界であるはず。
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死に方がわからぬ足袋の白の前 〔Ⅷ 44-55歳〕
夕焼けてタイワンドジヤウかお前らは 〔Ⅷ 44-55歳〕
喜田進次は2008年8月2日、55歳で亡くなった。
≫金雀枝舎ウェブサイト:『進次』
2012-03-11
虫・石・星〔断章風に〕 喜田進次句集『進次』を読む 西原天気
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