2012-03-11

虫・石・星〔断章風に〕 喜田進次句集『進次』を読む 西原天気

虫・石・星〔断章風に〕
喜田進次句集『進次』を読む

西原天気


喜田進次句集『進次』(2012年2月14日/金雀枝舎)。別冊として詩集『死の床より』。喜田進次の24歳から享年55歳までの句作を収録。遺句集にして全句集と解していいのだろう。

編年により8章に分かれる。

Ⅰ 1976-79 24-27歳 88句
Ⅱ 1980-81 28-29歳 93句
Ⅲ 1982-83 30-31歳 99句
Ⅳ 1984-85 32-33歳 92句
Ⅴ 1986-87 34-35歳 70句
Ⅵ 1988-89 36-37歳 63句
Ⅶ 1990-91 38-39歳 49句
Ⅷ 1996-08 44-55歳 92句

計 646句

20代後半から30代にかけての旺盛な句作ののち、40代前半に空白期間、句作再開後を収める第Ⅷ章は12年間で92句とペースが落ちる。



句集を読むときはノート等に句を書き抜く。数えてみると110句以上になった。見開きに一句という驚くべき確率。



句の並びのなかに喜田進次の短文が差し挟まれる。編集は巧みで、散文と句作が凭れ合わない。とはいえ、読者にとっては短文が「ヒント」になりうる。としても、これを「解説」とせず、句を読むことが私の当面の課題。



さて、この『進次』、俳句表現と作者のあいだの軋みのようなものが随所に。

どんぶりの中に寝冷えの金魚かな  〔Ⅰ 24-27歳〕

鴉・かもめ・絶壁・冬の骨を見る 〔Ⅱ 28-29歳〕

蚯蚓ぶち切る左の方が観音寺  〔Ⅴ 34-35歳〕

こうした引用は、しかし、作者の一面の、そのまたごく一部分しか伝えない。



句集を語ることは、部分を語ることでしかない。書評は、梗概やら寸評のような顔をしているが、実際は、箪笥一棹の角の木目ひとつ、あるいは鉄の環の模様の先端だけを語るにすぎない。

(手短に的確に書ききったような顔をした、わかったような句集評を信用してはいけない)

(…とは、この一文・拙文の言い訳というだけではなくて)

俳句にある程度の期間、ある程度の熱意をもって携わった人が、ひとつの覚悟をもって編むのが句集であれば、どの句集もそれぞれの豊かさをもっている(たいていは)。書評・句集評がきれいに書ききれる・紹介しきれるほど貧しくはない。



俳句表現との軋みとは、ひとつには、詩(ジャンルとしての散文詩)と俳句のあいだで揺れるようなものか。

例えば「円」。

作者の外からもたらされた「円」という概念が、作者の観念として句の展開に寄与する。

日傘ひらけばシベリアも面影も円  〔Ⅴ 34-35歳〕

「円」が日傘の把握・描写にとどまらず、不定形の「面影」にまで働きかけようとする。こうした作用はいわゆる「俳句」よりもむしろ「詩」に属する作用か。



例えば「大きい」。

おぼろ夜のうごかざる水巨きかり  〔Ⅰ 24-27歳〕

ねむるとき大きな柿が過ぎゆけり  〔Ⅰ 24-27歳〕

泉ありけり大きな息をして帰る  〔Ⅱ 28-29歳〕

真夜中の大きな無風白桃噛む  〔Ⅳ 32-33歳〕

把握・描写よりもむしろ「大きさ」そのものが体験の成分。



幕間的に。

俳句世間的な物言いは、早いうちに済ましておくのがいい。この句集のおよそ85パーセントを占める24歳から30代の句作。いわゆる「若手」、俳句基準ではなく世間的にも「若い」といわれる時期に、すでに生硬さを脱していること、太く強い語の感触を使いこなすとともに、俳諧的な自在さも備えていること、さらににいえば句群のトータル=「作家性」が早い時期に確立されていることに、やはり驚いてしまう。



「石」は繰り返し現れる。

灼け石の匂ひと言はれても知らぬ  〔Ⅰ 24-27歳〕

石になり蟋蟀になり人になり  〔Ⅰ 24-27歳〕

ぬれてゐる水着に大理石の匂ひ  〔Ⅱ 28-29歳〕

陽炎や眼は石の奥へ奥へ  〔Ⅲ 30-31歳〕

綿虫に石の大きな息ありぬ  〔Ⅵ 36-37歳〕

石が宿す匂いや感触へと、句が向かう。


句を多く引く句集評は、よろしくない。それを読んだ人が句集を読んだ気になってしまうから。抑えよう。



詩に傾く俳句、というわけではけっしてない。詩との距離感を冷静に測る態度。

六月のくらき畳や羊羹切る  〔Ⅳ 32-33歳〕



あるいは、

椋鳥にあけつぱなしの財布かな  〔Ⅲ 30-31歳〕

ビートルズが気絶してゐる秋刀魚かな  〔Ⅲ 30-31歳〕

「俗」へと悦ばしく手を延ばすかのような。

空爆してゐてあたたかな太股がある  〔Ⅷ 44-55歳〕

軽妙。

馬刀採りに歩いてゆける時間かな  〔Ⅳ 32-33歳〕

放哉のいれものに地中海と小便  〔Ⅷ 44-55歳〕

飄逸。

詩との距離を見定めつつ、俳句の領分に遊ぶ。しかし、作者の意図・意思は始終揺れているようでもある。



句と作者名。この一般的な話題。さらには作者にまつわる情報(パラテクスト)。別個に扱うか表裏一体か。

句集を読む際には、しかし、これらはどだい、一体でしか読みようがない。

(俗流テクスト論ではなく)

つまりは、句集『進次』を読むとは、喜田進次という「作者」を体験すことでしかないではないか、というだけの話。

(さりとて評伝的俳句解釈でもなく)

喜田進次という人の暮らし、生きた時間について、そのヒントを、俳句作品の外にまで(まるで綿密な捜査のように)探し求める必要はない。

書かれたことを読むこと/書かれていないことを読まないことによって、作者という人間を度外視するでもなく、読みが限定されるでもなく、作者を体験する。



一篇として編まれた句集『進次』の豊かさ。

例えば虫。

どしやぶりのとんぼの胴とすれちがふ  〔Ⅲ 30-31歳〕

地球まはりゆく蟋蟀がついてゆく  〔Ⅳ 32-33歳〕

星。

彗星の発端に絮一つ立ち  〔Ⅳ 32-33歳〕

枝豆を水のやうなる月に噛む  〔Ⅴ 34-35歳〕

猫の目に土星木星ゐて雷雨  〔Ⅵ 36-37歳〕

葱濡れて月光になつてしまひぬ  〔Ⅷ 44-55歳〕

天体に備わる肌理や湿度。



(良き)作者とは、作者と私たちを包む「世界」の豊かさを、私たちにもたらしてくれる人のことだ。1冊の句集を読むこととは、その豊かさを経験することだろう。その豊かさは一様ではない。天国や平穏もあれば、苦さや軋みもある。

天国の反対は(劇的な)地獄ではなく、日常の屈託や退屈であったりする。日常を薄く包み込む不安であったりもする。それらはときに、まがまがしい口調を選ぶこともある。

それでも、それらをすべて含め、世界は世界であるはず。



死に方がわからぬ足袋の白の前  〔Ⅷ 44-55歳〕

夕焼けてタイワンドジヤウかお前らは  〔Ⅷ 44-55歳〕

喜田進次は2008年8月2日、55歳で亡くなった。



金雀枝舎ウェブサイト:『進次』リンク

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