2012-03-18

写生写生文研究会  第二部第三部レポート 写生ー俳句の場合ー 久留島元

写生写生文研究会  第二部第三部レポート 
写生─俳句の場合─ 

久留島 元


本稿は2012年2月4日、京都私学会館で開催された写生・写生文研究会「俳句にとって写生とは?」第二部、第三部報告レポートである。

第二部は、竹中宏氏に加え、コメンテーターに岩城久治氏、中田剛氏、関悦史氏が加わり、青木亮人氏の司会でディスカッションが行われた。

まず、議論の前提となった竹中氏の講演の要点を書き出しておきたい。
・「写生」は、俳句だけの独占的問題ではない。
・「写生」は、俳句が表現される以前の態度、姿勢の問題である。
・「写生」は、人間の思い通りにならない外的世界を受け入れる態度である。

当初はそれぞれのコメント報告から始まる予定だったが、議論は自ずから竹中氏の「写生」観を受け止めてのディスカッションとなった。

その後、10分程度の休憩をはさんで第三部ではフロアからの質問が加わり、全体でおよそ2時間強にわたる議論が行われた。

本稿では(1)、(2)で、記憶とメモをもとに議論の再現を目指す。(3)は議論を踏まえた筆者の感想である。

ただし議論全体の雰囲気を伝えることを優先するため、忠実な再現ではなく以下の凡例をもうけて再構成することにした。参加者各氏に校閲をお願いしたが、文責は筆者にある。ご理解をいただきたい。

1.文中の敬称は適宜省略ないし統一した。
2.口調や言い回しはほぼ統一し、箇条書き風に記した。
3.同じ話題が繰り返された場合や、重要でなかったと思われる一部のやりとりは適宜、編集加工を行った。その過程で表現を補った箇所もある。



(1)

青木 はじめにそれぞれのコメンテーターから発言いただきたい。まず岩城氏から。

岩城 結局、<写生>という文言がいけない、という気がする。

竹中氏の「写生」論は、私の言い方でいえば物、こと、外部との関わりのなかで俳句が作られていく、ということだと思うが、それは当然であり、<写生>と名付ける必要はない。

竹中 たしかに<写生>という語がいけない、混乱する、という面もあるが、歴史的に、近代という段階では<写生>という語であらわす他なかった、ということ。

われわれが外部に開かれてある存在だということが、西洋絵画の<写生>技法の流入をきっかけに強く意識され命名された、ということが、俳句の近代を見る場合に重要だ。

岩城 <私>と(外部と)の関わり方、そのなかで<私>がどうあらわれるか、そのあらわれ方、ということで、それ以外呼びようがないものではないか。
私自身は<写生>という語ではあらわさない。<写生>という語にこだわったことがない。

竹中 さきほど言った、蛇笏、誓子、草田男などの出色の作家、そのそれぞれの俳句をすべて含み込んでいく、共通点、共有の体験として、「写生」があったのではないか。そこを探っていくと、「主観」対「客観」という基本図式に立つ近代的な芸術観の枠組では、説明しきれないのではないか。

青木 個々の作家の表出の違いは当然だが、竹中さんがこだわっているのは歴史的に様々な作家が、それでも<写生>という語を用い続けてきた、歴史性ということだろう。

岩城 竹中氏が、秋桜子を構成美といった言い方で評したと思う。
そういう自意識を解放するものが<写生>という論はよくわかる。しかし<写生>は結局、一人の人間として現れる、在り方そのもの、ということだろう。人によっては自然をなぞるかもしれないし、別のこともあり得る、それだけのことではないか。

青木 中田氏どうぞ。

中田 私は竹中氏のシンパなので、納得するところが多く、コメンテーターは本来ふさわしくないのだが、私自身は<写生>にこだわっており、実作者として、もの自体、質感を再現させるようなリアリティのある表現をめざしている。

今回、<写生>と<写実>を『広辞苑』で調べてきた。

<写生>は、「景色や事物をありのままうつしとること。客観的描写を主とする態度」であり、<写実>は、「事物の実際のままを絵や文章にうつすこと」と書いてある。

僕自身は<写実>のほうが物ごとの実相を写す、といった意味合いでとらえていた。竹中氏のいう<写生>は、私にいう<写実>にちかい。

子規が絵画の方法として取り入れた<写生>は、まさに「ありのままうつしとる」ことで、物の中に入り込んで理解し、実相を写す、といった内容ではない。

子規の場合は、個人的な事情として生きるため見ること、食べることが重要であり、見る、という外部との関わり方にこだわった。

竹中氏の、思うようにならぬモノをニュートラルに受け入れる、といった態度とは別。

俳句とは結局言葉の問題であり、思うようにならぬ不定形のわからないものを引き出してから、それをどう表現できるか、ということにつきるので、やはり具体的にどういったものが「写生」体験が感じられる句なのか、示して欲しい。たとえば爽波でいえば、

 福笑鉄橋斜め前方に  爽波『骰子』

といった句がある。不気味であり、私にはわからない。こうした不気味さを指すのか。

竹中 中田氏が俳句を表現の問題としてとらえる、それは当然のことだが、私の話したのはもっと手前の段階。<写生>は、俳句が俳句となる直前のところ。

言葉となりきる前のなりきらないところをどう受け止めるか、腹に据えておくか、ということは後の表れ方にも違いが出る。表れ方は個々別々で一般論で言えない。
むしろ、それは、歴史上の作家たちが一様に<写生>を唱えながら、俳句では個々別々にあらわれるのはなぜか、といった問題である。

中田 <写生>を仮に方法として、そういう方法を介在させることで、ときに作家の生き方や背景を引きずり出してしまう、ということはよくわかる。

竹中 そういった稀に成就したケース、出色の成功例があるから重要なのではない。<写生>という概念は、単一の、微視的、具体的な作例を超えてとらえられる必要がある。

 「<写生>は俳句プロパーの問題ではない」という発言があり、たしかに<有季定型>や<俳諧性>の問題と<写生>とは複雑に絡み合いながら別の問題系である。

「<写生>という語が適切かどうか」という話題も出た。技法の内容は歴史的な変化があるが、すべて<写生>という言葉であらわされている。

近代俳句史が、いわば<写生>という語の拡大と変遷の歴史。

「写生は自由闊達の世界」(波多野爽波)というが、竹中氏の言う「不快」であったり「ノイズ」であったりする心地よくないものを取り込むことが、なぜ自由なのかという問題。

基本的技法としての<写生>は、いわゆる近代的自我と対立しているように見えるが、歴史的経緯として明治時代、その成立とともに意識されたもの。

一般に近代は<自我>の確立期とされているが、現代思想の土台をなす、マルクス、フロイト、ニイチェ、ソシュール、の4者におけるおおざっぱな共通点を言えば、「私の主人は私ではない」ということ。

こうした思想が流入する明治に、いわゆる近代的自我の解体として<写生>が選択された。

<写生>は、竹中氏の言う<不快>も取り込んでしまって他者としての自分をあらわにする手法であり、だからそこが「自由」なのだが、秋桜子は取り込むものを自分の美意識によってある程度限定してしまったといえる。

爽波の句は、

 伐りし竹ねかせてありて少し坂  爽波
 金魚玉とり落としなば舗道の花

のように、秋桜子的美意識とは関係がない。意味も象徴性もそぎ落とされ、何の意味も持たない、あえていえば非意味の世界それ自体が横たわっているような不気味さがある。

子規の段階では、<月並>、つまり歴史的価値観に対する批評として<写生>があったが、歴史的な美意識以外にも我々にはもともと持っている先入観、物ごとに対する観念がある。そうした観念を打ち破り、自分のイメージと違うものを取り込む契機が<写生>。

つまり、子どもの遠足後の作文レベルのことでも、「行ってみなくちゃわからない」「やってみなくちゃわからない」ということが無数に出てくる。

自分の言いたいことは「メッセージ」になり、わかりやすいがおもしろくない。往々にして同じ発想におちいる。

外部に受動的になることで、かえって自分を通して個々別々にあらわれる。

<写生>として取り込んだものを、あらためて具体的に表現するときに竹中宏がこだわったのが<不快>、<ノイズ>といった言葉であった、ということだろう。

竹中 <写生>の内容が歴史的に変化していくという話題があったが、文化の裂け目にあらわれた言葉が変化していくのは当然なのではないか。

近代以前に<写生>というタームはあらわれないが、世界が自分の思いどおりにならない、というのは、近代以前にはごくごく当たり前の、ものの感じ方だったと思われる。

近代の確立期、<自我>の意識化のなかで違和感、逸脱する部分が、<写生>と名付けられた。

目の前の現実が理想を裏切ってしまうことを当然と思う姿勢、自分の足場をしっかりと持たず、変化する現実にその都度対応するような姿勢が、日本人の考え方なのではないか。

 <写生>句にはある種の不気味さがある。

言いたいことを言わない、寡黙である、ということが俳句の基本的方法の一つだが、言いたいことを抑圧するとかえって幽霊のように立ち帰ってくる。そぎ落とされることで逆説的に見えてくる風景の不気味さが事後的に作者をかたち作っていくのではないか。

秋桜子は<写生>を美意識(美学)のほうにあわせていく。<写生>の潜勢力を減殺させているともいえる。

歴史的には<写生>の範囲をたわめたことで、その後の多彩な新興俳句運動の契機となったのかもしれないが。

中田 質感を再現することを目指すことを<写実>と呼ぶのであれば、爽波の句にそういった質感は感じられない。

爽波にももっと不気味な、理解しがたい句はあるが、「伐りし竹…」は、ただ伐られた「竹」が横たわっている景が再現されるだけで、感覚的なリアリティは感じられない。

 たしかに質感を前面に出している句ではないし、爽波は質感に対するこだわりは少ない作家かもしれない。

しかし、「竹」というだけである程度の質感が再現されうるのが短詩型の特徴ともいえる。

岩城 ちょっといいですか。

竹中氏と爽波とのエピソードで次のようなものがあるので、紹介しておきたい。

 桔梗の花の中よりくもの糸   素十
 くもの糸一すぢよぎる百合の前

爽波はこの2句について、ホトトギス俳句の<写生>の真実の差が二句の差にあらわれている、<写生>の機微を探る道である、と言った、ということである。

ここに<写生>があらわれている、ということはどういうことであろうか。

竹中 その会話はよく覚えている。後者のほうが構成的である、ということだ。

爽波の解釈では、前者の句は、「くもの糸」のことは明示的に書かれてはいないが、花からよれて垂れていることを感じさせる。後者は「一すぢ」に美的な緊張感がある。爽波は、後者の美的緊張の構成的表現ではなく、前者の非構成が<写生>だと評価した。

爽波は、<写生>は発見だとも言っていた。

中田 そういった句と重なるのかどうか、虚子には「偶成」という前書のある句、つまりたまたまできた句に意味のわからない得体の知れない句がある。

 手を挙げて走る女や山桜

の句は、昭和19年の作で、終戦前という状況を考慮するべきなのか、得体の知れないおぞましさのようなものを感じる。<写生>とはそうした質感を伴うものではないか。

ここで第二部が終了。

(2)

第三部はフロアからの質問の時間だった。当日会場は30名余の聴講者が参加しており、質問者の名前は、その場で判明した方以外は匿名とさせていただく。

フロアA(正岡豊さん) <写生>というとほかの作家もたくさんいると思うが、なぜ今日はこんなに爽波ばっかり取り上げられて、爽波デーなのか、という気がする。
質問は、まず中田氏に、爽波のどこに惹かれるのか、ということ。

次に関氏へ。爽波にも美意識のある句はたくさんある。たまたま手元にある『俳コレ』の巻末座談会で、岡村知昭氏の句を関氏は「全体に不吉」「怨念が籠もっている」などと評するが、上田信治氏が「そこまで深刻じゃない」「裏側を聞くとすごくくだらない事実がでてきちゃうんじゃないか」と言っている。同じように、ニヒリズムとか不気味さという以外にも爽波には単純な美意識の句が多いのではないか。

中田 爽波になったのは、成り行きなんで、特に理由はないんですが。

爽波は、僕にとってはアルチザン(職人)の魅力で、虚子や放哉のような得体の知れなさはない。仰ったような、日本画のような美意識に惹かれる句もあるし、「見た」という視点だけが残されたような句もある。様々な技巧があると思う。

 たしかに美意識の句はあるが、秋桜子のような明確な美意識とは遠いのではないか。

岩城 私は<写生>に興味がないので、ここに座っていることも違和感があって、なんでこの場に出させられたのかと思って、さっきから黙っているんですが。

私は俳句とは<ことば>の世界だと思っている。結局はあらわれ方の問題だ。

青木 今回<写生>というテーマは仮のもの(笑)。<写生>というテーマから、俳句がどういう文学かを考えるきっかけになればいい。目の前に座っている、彌榮さん、どうですか。

彌榮 いま仮に<写生>を禁止されたとしたら、自分自身は俳句をしない、できない。

議論を聞きながら、<写生>は俳句にとって必要条件でも十分条件でもないと思っているが、自分にとっては事実を句にする、<写生>ということが重要だ、と再認識した。

関さん、竹中さんは同じように「写生だけで俳句は作れない」と言うが、内容は全然別ではないか、という気がする。

 しかし、彌榮さんの句は写実的な句は少ないのではないか。

作者にとっては単なる事実かもしれないが、編集の方法、加工の仕方によっておもしろくなる、変わった風景に見える、というのが彌榮さんの句のおもしろさではないか。

彌榮 自分にとってはあくまで自分と関係した事実があった、ということが重要である。

青木 関さんの句も、見たこと、実際に見たものを核としていることが多い。

 そうですね。昨年句集を出したが、句集を読んでくれた人がそろって「生々しい」という感想だった。

介護、震災の句が多いせいもあるだろうが、絵画や小説をモチーフにした句も含めて、「生々しい」と言われる。

フロアB(堀本吟さん) 今日の竹中さんの話では<写生>を俳句の外に置く、ということだった。

実際の俳句を見ると、竹中氏の句は意識、観念の動きで作っている、観念性を重視しているのではないか。

稲畑汀子さんなどは「自然の移ろいを写すのが俳句」という言い方をしており、そういったいわゆる伝統派の<写生>の一方で、竹中氏がどうして「伝統」であり「写生」なのか、と思う。関氏も観念的なリアリティの強い作風なので、共鳴するのではないか。

竹中 わからないけれども、僕の句作の動機として観念が働いているとすれば、それはもっと<写生>に近づけていきたい。

観念が観念として浮遊するのではなく、言語が僕の外にリアリティを持って出ていくかどうか、が重要である。

中田 関氏の作風が観念的、ということだったが、関氏の

  皿皿皿皿血皿皿皿皿皿  関悦史

は、非常にリアリティがある。もちろん文字面のおもしろさがあるが、縦書きで読むと、愚直に、ありのまま皿の積み重なりを表現している。厨房などでよく見る風景。そのなかに一点の血を見つけたとき、その血にリアリティを感じる。

青木 関さんとしては高橋新吉へのオマージュという意味が強かったと思うが、中田さんは質感、リアリティを感じたということで、おもしろい。

竹中 ホトトギスに属する友人、別に無名の作家で特筆すべきでもないが、その友人に、<写生>がうまくいったと思うときはどういうときか、と聞いたことがある。

友人は、「今まで見てきたものが見えなくなって、新しいものがあっと見えた瞬間」
だと言っていた。僕の中で爽波の言葉と並んで、<写生>を考えるときに心にとめている。

写生俳句と称するものはゴマンとあるが、そのなかで起こっている共通の体験はこういうことではないか。吟行で何を見るとかではない、何かが見えなくなって、何かが見えてくる、そのダイナミズム。

作品として結実するかどうか、とは別の問題だと思っている。

フロアB 観念が消える、とはなぜ言えるのか。

竹中 わかりません。

客観的に見れば、消えたと思って新しく見えてきたと思うのもそれも観念だ、といえば、そうかもしれない。重要なのは、言葉が僕から半分出ていってくれるかどうか。そのための場として写生がある、と考えている。

青木 竹中氏は、そうした<写生>体験が共有されているとして、そこからホトトギス派の、いわゆる本流の作家が言語化した作品については、どう見ているか。

竹中 非常に素朴だ、と思います。これは、善し悪しではない。

ホトトギス派は大きくて、ピンからキリまでいるが、さきほど言ったようなキリの、無名作家でもそのくらいのことは感じている、そのくらいの体験は共有していると見ておきたい。

青木 ホトトギスの話題が出たので、ホトトギス系の方にも話を聞きたいが。

フロアC 高浜虚子の「俳話」をバイブルにしております。

今日の話は難しくてついていけないことも多かったのですが、虚子が言っていることと結局同じことなのでは、という気がする。虚子が平明に、簡単に、と繰り返した意味が、かえってよくわかったように思う。

フロアD <写生>は近代に明確になった、ということだが、俳句自体は前近代からつながっている。もちろん近代以前は俳諧だ、ということもあるが、近代以前に、<写生>の議論、<写生>という言葉を使わないとしてもそうした議論はなかったのか。

青木 (近代以前の議論は)ないです。

江戸期にも<写生>と呼ぶべき感覚、認識はあったと思われるが、近代とおよそ違う認識だったと思われる。

 凡兆の「雪つむ上のよるの雨」という句に芭蕉が「下京や」の上五をつけたが、凡兆が納得しなかった、という話では、<写生>をどう捉えるかに類したすれ違いがあったともとれる。

竹中 つながっているとしても同質かどうかは慎重な腑分けが必要。

ホトトギス派がよく<写生>論の先蹤として出すのは、芭蕉の「松のことは松にならい、竹のことは竹にならえ」だが、なぜ松であり竹なのか、「松の位、竹の位」という前提があるはずで、近代以後の理解とは意味合いが違う。

フロアE(佐藤文香さん) 話題のなかでは、自然と一体化する、といった話などがあった。私の中では、<自分>も、<書く自分>にとっては外部。<写生>が、外部へ反応する、外部の対象への構えのことを言うならば、<自分>も対象になる。

自然と一体化して、自分のものでないような気がしたときにできる句を、よく「降りてきた句」とか、「書かされるように書いた句」というが、そういった<写生>体験はあるか。

中田 作るプロセスで自然と一体化して幸せを感じるのはいいが、言葉として出てきたときに構築、補正していく作業が必要。表現としてどう出るか、のほうが重要だ。

岩城 爽波のエピソードで印象的なことがある。吟行に行くときに、事前に季語をたくさんメモしておいて、吟行先では徹底していろいろなものを見るという。

爽波という人はもっと実地派、吟行派の人だと思っていたが、準備することもあった。見たものを、用意した季語にぶつける、そういう構築もする人だった、ということが印象的。

私は「ことば」に関心がある。あらかじめ用意しておいたものに、見たものがぶつかる、その意外性も、ある種の「降りてきた」感覚かもしれない。

関  ホトトギス派の、自然と一体化するような<写生>と、今回の話題は、進化の系統樹の別の極を見ているような気がする。

ホトトギス派の<写生>は、外部に自己をひらいてノイズとの相克の場にしていくのではなく、自然を自分の枠内で想像的に同一化させていくような手法。

自分に<写生>体験があるか、と言われれば、現実のモノと一対一で対応しあっていない観念的・直観的な語彙と、目の前の現実=質料世界がぶつかったときに感じることがある。

竹中 <写生>は、俳句として立ち上がる直前のこと。<写生>が言語化するときにたいへんな困難が予期される。いま言ったような、自分でないものに書かされているような感覚は、古代人は「降りてくる」とか「ミューズに息を吹き込まれる」とか表現したのだろうが、我々はそう表現する必要がない。

青木 ここでは「写生」について、何か共通の「答え」を出そうとしたのではない。

「写生」をめぐって、実作者の「割り切れなさ」をぶつけあうこと。それは興味深いかたちでなされたと思う。意義深いディスカッションだった。

(3)

<写生>が俳句だけの問題ではなく、表現として生まれる前の、「姿勢」や「態度」の問題だ――、という考えは、考えてみれば当たり前のものだ。

だからこそ子規は文章にも短歌にも共通する文学技法として<写生>を打ち出したのであり、本来この研究会も「写生文」の研究会だったのだから、話題は本来、ジャンルを横断しうる普遍性を前提に議論されるべきであった。

しかし、ともすれば「俳人」たちはその単純な事実を忘れていないか。

<写生>を俳句固有の問題、「俳句」という表現形式と一体と錯覚するほどに、<写生>は俳句史のなかで不可避的に議論されてきてはいなかったか。

<写生>論が、今日までさまざまな再解釈を経ながら連綿と続いてきたのは、同じ<写生>の語を用いて、同じような<写生>論を述べていても、結果、表現された個々の作品の色合いがすべて違う、という違和感が原因であっただろう。

だから、結果的に多様な俳句ができることを前提として、竹中氏が<写生>を「表現以前」と定義したことは、議論の前提として重要な意味があった、と思う。

むろん、俳句における<写生>と、ほかの形式における<写生>を同一に語れるかどうか、は今後検証されるべき問題として残されている。

特に、短歌における<写生>はどうだったのかは気になるところだ。

私は短歌にはまったく疎いので深入りを避けるが、印象で言うと、現代短歌で<写生>はあまり意識されていないようである。

<写生>を、「思い通りにならない外部のノイズごと、自分のなかに受容する態度」と理解するとき、「写生」は実際には「ノイズ」を不快なものと認識する「作者」と「外部」とのズレ、違和/異和を、表面化させる手段であることに気づく。

その意味でいうならば実は「ノイズ」は「感動」「発見」と同じ、要するに自分の価値観を超えた、一種の圭角である。その圭角の在り方、どこにどのようにひっかかっているか、というところに、消えたはずの作者の個性が色濃く投影されているのだ。

それが、「客観写生」は「主観」だ、という、虚子の理論の骨格なのだろうと思う。

これに対して、短歌という詩型はより積極的に外部と作者とを親和的に結びつける、つまり「ノイズ」を認識させず一体化させるのが得意な詩型だ、と捉えられないだろうか。

確信も確証もなく思い込みで話を進めることにする。

私がこの日の議論を聞きながら思ったのは、正岡子規の「写生」論を、より忠実に継承した、河東碧梧桐のことである。

碧梧桐は、「自然をありのまま写す」という子規の素朴な「写生」論を推し進めた結果、「無中心」論を展開し、結局俳句史のなかで傍流になっていくわけである。

自然の現象は玉石混淆で雑然としておる。其中から美なるものを採って俳句という詩に構成する。・・・・・・所謂明瞭な中心点の為めに自然の現象を犠牲に供せねばならぬ場合がある。即ち自然を偽らねば中心点の出来ぬ場合がある。・・・・・・即ち名義は写生であっても、中心点の束縛の為めに、写生の意義を没却する場合が絶無であるとは云えぬ。

碧梧桐「「無中心」という新しい時空」夏石番矢編『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫。原題「<無中心>論」)

碧梧桐のいう「中心点」が、俳句の核となる「発見」であり「感動」であり、竹中氏の場合は「ノイズ」であり、私に言う「圭角」なのではないか。その圭角がない状態(無中心)を我々が「俳句っぽくない」と感じるということが、おそらく重要なのだ。

ここでいう「我々」とは、子規、碧梧桐、虚子から、4S、前衛俳句、新古典派といった歴史的過程を経てきた、「我々」である。現在の我々が選択する「俳句っぽさ」が、ひとつは明らかな「中心点」をもつ詩型である、ということだ。

「中心点」の見せ方(表現)にはさまざまな手法があり、今後もさまざまに試みられていくべきだが、おおざっぱにまとめればともかく明確な「中心点」をもつ極小の詩型である、ということが重視されてきたことは疑えない。

そのうえで、他とは違う作者固有の「中心点」を際立たせる技法として、<写生>という、きわめて受動的な姿勢が有効とされてきたこと、そのなかで「俳句」という表現形式と一体のように語られてきたことが、俳句表現史に即して考えられるべきだろう。

<写生>論とはつまり、「表現」以前の問題であるがゆえに、「表現」方法の立場を超えて、「俳句」とはなにか、ということを考えさせるテーマなのかもしれない。

1 コメント:

四ッ谷 龍 さんのコメント...

爽波氏が引用した素十の句は、もう一句あったのではないでしょうか。
 ひつぱれる糸まつすぐや甲虫
です。そしてこの句を氏はいちばん低く評価していたはずです。

以前、田中裕明と素十についての話をしていて、私が甲虫の句を例に出したら、裕明が即座に
「それは良くない句ですね」
と言いました。他人の発言を頭ごなしに否定するようなことは、ふだん彼はしなかったので、このときはあっけにとられたものです。
しかし、ああ、これはたぶん爽波さんがそう言ったんだろうなと直感的に思いました。爽波師の俳句観を、裕明は信奉していましたから。
後に裕明夫人の森賀まりさんにこのことを質問したら、案の定そのとおりで、爽波氏は素十の句を三句挙げて批評されたとのことでした。