2012-03-18

写生不快 竹中宏

写生不快

竹中宏

「青」昭和50年10月号


かって、金子兜太がその句集の後記で 「抒情的でなく抒情を、観念的ではなく観念を」と書いた口吻にならうならば、 まずは、写生につながるニュアンスを常識的にみとめられていろもろもろの現象を、写生自体から明確に区別して、写生的でなく写生をと書くことからはじめねばなるまい。

なぜなら、 写生を唱導する流派が子規以来の俳壇の圧倒的主流を形成してきたという、単なる量的事実への顧慮でなく、実際、近代・現代における俳句表現のすぐれた達成のほとんどが、写生となんらかのかかわりを持ち、または、写生を直接標榜するたちばから生みだされていることについて、個々の花々の多様よりも、それらの背後にあってそれらに精気をあたえ、かつ、それらをある見えざる中心へとつなぐものでもあるような、一定の世界体験の様態としての「写生」とはなにであるかという関心からわたくしは出発したからである。

写生論は、おそらく、一度このレヴェルまで昇華させる必要があろう。論者の理解にこの昇華が不充分なために、子親や虚子についての論説に混迷の生ずることは、めずらしくない。子規も虚子も、写生を説き、かつ、実践した。説いたことには飛躍があり、矛盾があり、韜晦がある。実践には、偏異があり、実現すべくして実現しなかった部分がある。子規や虚子において、その言説がその作品と充分に契合しないことは、他の作家のばあいと一般である。

現実の子規または虚子、またはその他のだれそれの作品と言説とに即して写生を理解ようとすると、作家の世界にひそむ矛盾撞着がつまづきの石となる。この石をとびこえるには、いったんその作家の背後へつきぬけた理解がなくてはならない。



写生を写生自体として理解する視点に立って、逆に、ひとりの俳人の作品を照らしだせば、その作品形成に、写生以外のさまざまな念慮がいかにはたらいているか、それらの念慮と写生とがいかに干渉しあっているかを、見いだすことができよう。

写生が俳句に特異な力をもたらすことは事実であっても、およそ一句が純粋に写生への意志だけで成立するものとは、かんがえられない。俳人ひとりひとりの作品に、構図や修辞に特徴があり、かれの個性的な審美上の 好尚を指摘しうることをおもってみれば、それは納得できる。行住坐臥に写生の気息を呼吸していたかのごとき虚子にあっても、事情は例外的でないはずだ。

こういったからとて、世に「写生する以外になんの能もない」と非難される、無個性的な凡百の写生派末徒が、単に個性的なものからの遠さのゆえに、もっとも純粋に写生に忠実だなどということにはならない。けだし、世上一般の評判に反して、これらの写生風作品は、写生の実例にすらなりえない。

せいぜいそれは、あたえられたモードとして、予定された結構として、写生的であるにすぎない。そして、「頭でつくる」とはあたえられたモード、予定された結構に依拠して、一句をかまえることをいう。したがって、かれらにあっては、「頭で つくる」なとの教訓でしめされる写生の方法が、自在な生命をうしなって、逆のものに転化してしまっているのだ。

あたえられたモード、予定された結構を突破してゆくところに、写生の本懐はある。

子規が当時の月並俳諧を超え出ようとした姿勢にも、それがあり、写生にかかわる「自由闊達」の身ごなしというものも、それら作者自身を内部から限定するものへの抵抗を意味するにほかならない。

もっと一般的ないいかたをすれば、現実にわれわれは、事物や世界のありようについて、あらかじめなんらかの解釈をもったうえで、その既成の解釈の眼鏡をとおし、事物や世界にふれているのだが、写生は、この眼鏡を破砕し、その裂けめから、裸形の存在がつきでる。



一枚の葉の干反(ひそ)りや顫えが、世界についての壮大な抽象論をよく蒼ざめさせることを、写生の効いた一句はおしえよう。たえず目を洗って、世界を原初性へとおくりかえすこと。写生の目のとらえた一枚の木の葉は、宇宙の風光をこの一点に凝縮しているためにうつくしいのではない、背後にさまざまな感情・価値・理想・希望を窒息させているゆえにおそろしいのである。

ここへいたるに、「人間的なもの」への甘えを、いく枚脱ぎすてねばならなかったか。しかも、写生のうつしだす一種の無表情は、無機物の非情さとはまったく別様であり、白痴の表情におもいきり近いが、しかし、存在の弛緩とは無縁だ。

そして、そんな写生のはらむ果敢な破壊力だけが、 わたしにとって、写生への興味である。

松のものを松に、竹のものを竹に還元しつやすことによって、みずから吃立してきた峻嶺を、俳句史上に、たどりめぐることができよう。だが、窮極のところ写生が、一民族の文化的文脈をはなれえぬ人間の意識枠の地平を、垂直に透脱するものであるからは、俳句において写生を語ることの意味を、俳句の伝統論に解消することはできない。

写生は、一度一度が吃立し、孤独に文学そのものの根底へとどいている。まさしく、その先端においては、「それはもう詩一般に言えること」(座談会 「写生と私」での大串章氏発言)が、問われるのである。



写生体験とは、しかし、われわれの意識を、めまいか痙攣のように、瞬間にはしりとおる。なまな姿をわれわれの眼前にあらわした存在は、それを長時間さらしつづけることはできない。その鮮烈な記憶はのこされるが、記憶は、もはや現在の体験でない。このようにして、写生体験は、すぐさま、非写生的なものの厚い層によって、とざされてしまうことになる。

われわれの視神経が、太陽の凝視にたえないように、われわれの意識は、存在の裸形の現前にたええない。なぜなら、存在との直接な触れあいのために殺した感情移入や知的意味づけや価値判断こそは、日常、われわれと世界との折りあいをつけ、両者の調和的関係を維持させる機制(メカニズム)であったか。

われわれの所有することばもまた、 単に意味をつたえおわって退場する透明な記号ではなく、それ自体、なんらかの意識の構造に即した文法・統辞法・修辞法・文体としてたもたれているのだから、つまり、発せられる以前に、ことばはすでに世界の解釈であるから、存在との直接な遭遇とは、ことばを失う経験でもあろう。

写生において、われわれの世界像を安定的にささえるすべての足場はとりはらわれ、対象の未知なあらあらしさに出あうこととなる。対象のそんな姿を見出して「あ」という歓声がもたらせるとき、そこには見者の不安と痛みが、うずくまているのである。

存在の裸形を見いだすということは、裸形の自己を世界へとつきだすこと以外ではなかった。そして人間の歴史は、とりもなおさず、人間による世界や事物の意味づけの歴史であり、歴史をとおして形成された思想や文化から、ひとは、自己をよろうものを汲みとるのだから、写生において、ひとは、歴史のそそのかしを超えるが、同時にまた、歴史の保護をも失う。

もしわれわれの生活のうえで、自己の知見と、知見にもとづく判断や期待に信をおけなくなったら、たちまち、生活のたしかさはゆらぐ。だが、存在は、いつも不意に、期待を裏切るしかたで、おのれをあらわにする。

事物との具体的なまじわりより、知的抽象への信頼にあまりにかたむいている現代人にとって、存在への直面は、とりわけ大きな不安としなければならない。あたかも、それはもう、かれらが身をもって侵入を拒もうとする病症とでもいえよう。

たしかに、写生の成就において、自己の意識枠がすべて無力化するとき、われわれは、病気のように不快である。厚すぎる鎧をまとってしまった人間には、この不快、あるいは端的に嘔吐感といっていい、それこそが存在の指標である。不快は、はげしく過ぎた戦いの痕跡である。この不快だけが、むきだしの存在を贖いうる。



いわゆる写生的作風または写生風表現といった限定は、すでに問題でない。写生を、写生的なもののからみから解きはなつことは、写生論の出発点であるのみならず、実作をみちびく灯光でもある。

しかし写生の本質を、ことばを超えた極限の体験 へとつきつめるとき、俳句は、いかにして可能か。存在の実相を目撃するや、ただちに、表現の国への還路を、ひた走らねばならない。その旅程、何万里。このプロメテウスは、はたしてよく火を盗みだしうるか。いかなる方向にしてもあれ「絶対の追求」のもとでは、言語表現は、本来の根底的な矛盾をかくしつづけることができない。ことばは、隠すのか、顕わすのか。遠ざけるのか、近よせるのか。

「写生」にもっともよく成功した作品であっても、その表現と対象のあいだに、無限といってよい距離があり、表現はただ存在の方向をしめす身ぶり、または「かたむき」にとどまろう。存在は、作品のかなたにあるのだ。

同時にまた、ことばのこの存在への「かたむき」が、読者の恣意なおもい入れを拒む力として、一句に強靱と緊密と一種倨傲の色とをもたらしもする。恣意なおもい入れを拒む力というのも、リアリティと言いかえてよい。そして、リアリティは、いつも意識の外部から到来するのだった。

それは、写生体験から得た教訓、そうよぶならば写生の思想である。あるいは、写生の眼とは、対象のリアリティを見ぬき、見わける眼である。しかも、リアリティは、作品内部の各レヴェルについて問題となりうる一般的論点である。とするなら、この写生の思想を、 写生の従来的対象である事物のレヴェルにとざしておく必要はない。

たとえば、それがなんらかの観念であれ、一連のことばであれ、それらに対する作者の好悪の評価はあってよいが、同時に、それらのリアリティを問う写生の眼がありうるし、あらねばなるまい。観念のリアリティといっても、現実的有効性をさすのではないし、ことばのリアリティといっても、事実適合性のことではない。

かってもちいた比喩でいえば、それらのリアリティとは、それらが「布ぎれや煉瓦牛以上に、ものとしてなまなましくある」 かということである。

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