2012-07-15

今井杏太郎のことば

今井杏太郎のことば
「魚座」1997.1~2006.12から



最も大事なことは、なにを詠むか、ということではないかと思うのです。(…)結論をいえば、詠みたいことを思うように詠めばいいのです。(1997/1)

私は、たとえ句は痩せてもいいから先ず「寡黙」になれ、と言いたいのです。その次の段階で、言いたいことを思い出して、すこしばかり言ってみても決して遅すぎることはないのです。(1997/1)

例えていえば、「猿が木から落ちる」という意外性は、前者の常識の範囲のものであり、そこから更に、「猿が上手に木にのぼる」ことの不思議さに思いが到達し得たとき、はじめて思考の「飛躍性」が認識されることになる。(1997/6)

俳句の手法の一つに「俳句的因果」がある。(1997/6)

「殺し文句」とは、なるべく目立たずに、さり気ない言葉でなければならない、と思っている。(1997/6)

「俳句の面白さ」とは、こういう当たり前の素材(景色)を使って、リズミカルに、もっともらしく、楽しく仕立てあげる「芸」にある、といえよう。(1997/7)

俳句とは何か、という大きなテーマを論ずることも、たのしみの一つであるが、先ずは、いかに手際よく、そこそこの俳句をつくれるか……の方が、より現実的な問題であろう。(1997/10)

駄句というのは大事だと思いますよ。駄句が作れないと駄目だと思いますね。そこからはじまっていくんです。(1997/10)

次に、この「何」を「どう詠むか」ということになるのであるが、その答えは簡単。即ち、出来る限り、あっさりと簡単に詠めばいい。(1997/11)

こういう句を見て、"ああ、そうですか"などと物足りなさそうに言う人がいる。俳句とは"そうですか"で充分である。"ほう、なるほどなるほど"などと、妙に感心してもらう必要は、さらさら無い、と思っている。(1997/11)

口語的な発想ばかりして決めていると、俳句がどこかへ行ってしまうということを私は恐れる。私は決して散文的なものがすべて悪いとは思っていないのだが(…)「散文がよくないのは何か」というと、散文がきちんと書ける人は散文で作った俳句もいい(…)散文が書けない人は、韻文を先にやりなさいということです。(1997/11)

「一句一章」を構成するものを簡単に示せば、次のようになる。

①季語。②時間。場所③作者自身の思い。作者自身の行為。又は、第三者の行為。

即ち、この三つがあれば、直ちに一句が出来上がることになる。(…)もっとも簡単な例を挙げると、〈山道を歩いてゐたる寒さかな〉というようなことになる。〈山道〉が場所。〈歩いてゐたる〉が作者の行為。〈寒さ〉が季語。こう思えば、俳句とは、なんとやさしい文芸ではないか。(1997/12)

〈贅沢〉にしても、「たいくつ」にしても、多分に、作者自身の思いだけの言葉ということになるが、俳句には、ひとりよがりの思いがなければ、決して〈ぜいたく〉な句にはならないであろう。即ち「ひとりよがり」を上手に使えばいいのである。(1997/12)

「呟けば俳句」を俳句の原点を考えて、一年経ったが、この「つぶやき」とは、つぶやこう、と意識して呟けるものではなく、そのときどきに、ふっと出て来る、いうなれば吐息のようなものなのである。(…)「つぶやき」とは、その人の持つ情感からこぼれる涙のようなものであり、「ひとり言」とは、その人の思考からあふれ出て来る嘆きの思い、ということになるのではなかろうか。(1998/1)

重ねていうが、「駄句」とは、汗と涙と情念の句でなければならない。(1998/2)

近頃、俳句の世界でも、しきりに、そのリーズナブルな考えが支配的になりつつあるような気がしている。本来、俳句など、という文芸は、実生活のまわりに横着に存在するものであって、そういった意味では、決して「リーズナブル」であってはならない、とさえ考えているのであるが…。

(…)蕪村の〈菜の花や月は東に日は西に〉の句などは、案外に、リーズナブルなところをはるかに通り抜けてしまったような、いうなれば、充分に横着なところに存在している句、というようなことになるのではなかろうか。(1998/8)

三鬼の句についていえば、〈水枕ガバリと〉の〈と〉の一字に充分な注意を払わなければなるまい。この〈と〉が「切れ」になっているのである。(1998/9)

〈だんだんに夜が明けてきて茸山 杏太郎〉
「来て」の「て」の部分が一つの「間合い」になっているのである。このように「切れ」を「間合い」「休止」と考えることによって、「切れ」の感触も掴みやすくなるのではないだろうか。(1998/10)

俳句の調べとは、「切れ」と「句またがり」によって、自在になるであろうことが、予感できるのである。(1999/1)

原則論をいえば、俳句は、判らせようとして作るものではないが、それでも仲間たちにメッセージとしてさっぱり伝わらない、ということになれば、やはり穏やかではない。(1999/2)

技術的なことは別にして、「俳句を詩として捉えるな」と決めたのである。これを、別の表現を借りて言うならば、「大きな声で、これみよがしに詠うな」ということになろうか。(1999/10)

ここで、大変に大胆なことを言ってしまえば、俳句の表現方法は、常に、状況説明的なところに、その原点があることを認めざるを得ない。(2001/7)

ぜいたくをいうならば、「生きる証のために」ではなく、長い間やってきたら、それが生きることの証になっていた、という具合には行かないものであろうか。(2002/3)

「選句をどうするか」を、今、充分に解説する時間はないが、私は、「蚊帳の中から夕暮れの花を見るような感じ」で、選をすることにしている。いうなれば、なにかヴェールを通して見るような、そんな、離人症的体験を楽しむ時間と思っている。(2002/10)

先人のすぐれた作品に触れたとき、そこに使われている言葉にのみ、目を奪われてはなるまい。その時は、ゆっくり目を閉じて、その言葉の彼方にひろがる作者の心を、存分に思い浮かべることが、何より大切なことになろう。(2003/4)

かなしいときに笑い顔を見せる人がいる。昔、伊藤雄之助という役者さんがいた。確か、映画の一場面だったと思うのだが、鏡に向かい、傍にあったキャベツを 己の頭の上に乗せ、そして、ひとりで、にやっと笑った。このときほど、笑い顔というものの、ものすごさを感じたことはなかった。(2005/9)

たとえば、かつて、〈吊り橋の下を流るる梅雨の川〉という句を発表したとき、「吊り橋の下を川が流れるのは当たり前」と言われた。(…)私の拙い思いの中で は、先ず「梅雨の川」とは、なんなのか、という問いかけがなされ、その結果ようやく「吊り橋の下を流れる川こそが、梅雨の川なのだ」という結論に達するこ とになるのであるが…。(2005/10)

俳句のうつくしさ、とは、先ず、その「かたち」のうつくしさにある。「かたち」とは、表情といってもいい。そして、その「かたち」は、心のうつくしさでなければならない、と思っている。それに、ゆるやかなうごきが、加われば、申し分ない。(2005/11)

「境涯」とは、さまざまの境遇との出会いの果てに、どのような考え方、人生観を持つに至ったか、という絶対的な認識の上に成立するものであろう。即ち「境涯俳句」などと、軽々に唱えるべきではあるまい。「境涯」とは、さびしく、あわれなものである。(2006/4)

「ことの面白さ」は「ものの面白さ」ではないことを、賢明な「魚座」の諸兄姉は、いのちの盡くるまで考えて行ってもらいたい、と念じている。(2006/10)





選出 北川あい沙・茅根知子・編集部

1 コメント:

Hiroshi Mishima さんのコメント...

ブログに紹介させていただきました。

http://yukijuku.blogspot.com/