2012-07-15

句集評『海鳴り星』 切なく、滑稽で、けだるい…… 北川あい沙

[追悼・今井杏太郎]
第三句集『海鳴り星』(2000年 花神社)
切なく、滑稽で、けだるい

北川あい沙


さみしさとあわれさ。

「(「境涯」と「境遇」について)人は生きるとき、いろいろなことに出会うことになるが、それは「境遇」。「境涯」とはさまざまな境遇との出会いの果てに、どのような考え方、人生観を持つに至ったか、という絶対的な認識の上に成立するものであろう。「境涯」とは、さびしく、あわれなものである。」(※魚座2006年4月号より)

杏太郎の句は、ときどきさみしい。心のなかのさらに奥底に、生まれたときから抱えているどうにも埋められない、絶望に似たかなしみがあるとして。杏太郎の句はときどきそこに触れてくる。うすうすとした切なさがある句。

九つはさびしい数よ鳥雲に
雨の降る夜の玉葱畑かな
昼寝より覚めてきのふの家に居り
草の絵のさびしい秋の扇かな
かまきりのおはりのこゑを聞きにけり
鮎老いて水に流れてゆきにけり
こつこつといふ音のして枯るる山
遠いところに星のある寒さかな


「ものの面白さ」ではなく「ことの面白さ」

「(猿が木から落ちることよりも)猿がするすると木に登ることの不思議さを、じっくり考えて欲しいと思っています。」(※魚座2005年10月号より)

「どうしたら面白くなるかばかりをせっせと考え、どうだ面白いだろう、と作った本人が思ったとたん、もうその句は面白くない。」とも言っている。あたり前にもほどがある、と思うようなことを俳句にしてしまうところが、杏太郎であるが、しかしその俳句にはなぜか、しみじみとした味わいがある。

花種の袋に花の絵がありぬ
春風に吹かるる紙の袋かな
水に散るさくら流るるさくらかな
五つほど栄螺の入る網袋
空を吹く風あり春の雲ゆきぬ
水売の背負うてをりし水袋
虫籠を二つ持ちたる子供かな
頬杖を突いてつめたい手と思ふ
水になりかけてゐる霜柱かな




海に咲く花

船医だった杏太郎には海の句が多い。船に乗っていたある日のこと、海原に難破船の木端が浮かんでいた。良く見ると、ぽつんと小さな赤い花が咲いていて、こんなところでも花が咲くのかと感心した。というような話を聞いたことがある。木端に咲く小さな赤い花と大海原で出会ったというエピソード。いかにも杏太郎らしい。

菜の花の沖に海鳴り星の見ゆ
揺れながら波に眠れば蝶の昼
見まはして海かなしめば夏の月
海亀のうかんで星のひかる夜
まんぼうにつめたい夏の海があり
木の船の浮んで秋になりさうな


「嘘」と「虚」

「嘘であることを充分に認識しながら、嘘と虚の間に遊ぶ人種を俳人などと呼ぶようであるが、さてどうなのか…。」(※魚座2006年6月号より)

杏太郎と銀座で待ち合わせをしたときのこと、私が到着する少し前に、寸借詐欺と思われる中年の男性ふたりが「先生、お久しぶりです。お元気ですか?」と話しかけ、しきりとお茶に誘ってくる。そこで杏太郎、「今日は分刻みのスケジュールで忙しい、連絡をするから悪いが名刺をくれないか」と言ったら、這這の体で逃げて行ったらしいのだが。相手がただの老人ではなく、嘘の名人だったところが寸借詐欺の運の悪さだろう。そんな杏太郎の見てきたような嘘。作り込まれた虚構が心地良い。

紅梅にきのふの冷たさがありぬ
蛇穴を出でてさくらの木にむかふ
やどかりの歩いてとほくへ行くやうな
竜天に登りさくらの木が揺れぬ
砂のいろしてあふりかのかたつむり
百合化して真白の蝶になりにけり
月蝕の空にかみきりむしのこゑ
目をかるくつむりてゐたる風邪の神



最後に、老人の句

野に遊び、眠りを遊ぶ。わがままを言い、木の実に囲まれる。可笑しく、優しく、飄々と老人を見つめている。

老人のあそびに春の睡りあり
老いたれば遠くの山の梅を見に
春愁といふべしわがままになりぬ
べつかふの眼鏡をかけて野に遊ぶ
老人のまはりに増ゆる木の実かな



魚座0号のはじめのページに「呟けば、俳句」とある。杏太郎曰く、まわりにいるだろう誰かに聞いて貰いたい、という甘えを感じるのは「ひとり言」。「呟き」とは、他人に聞いてもらうためではなく己れ自身への語りかけであり、それが俳句なのだ、と。
「境涯」と「境遇」、「呟き」と「ひとり言」。感傷的な甘えともののあわれは違うのだ、というはっきりとした美意識を貫いている杏太郎俳句だからこそ、その切なく、滑稽で、けだるい呟きに触れるとき、深い優しさを感じるのだと思う。

杏太郎先生、ありがとうございました。

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