2012-07-15

句集評『風の吹くころ』自己消失のよろこび……上田信治

[追悼・今井杏太郎]
第五句集『風の吹くころ』(2009年 ふらんす堂)
自己消失のよろこび

上田信治


ふるさとに灯台がありあたたかし 『風の吹くころ』(以下同)
菜の花の蝶になるころ夜が明けぬ
舟小屋の扉が開いて竹の秋


ふるさとに灯台がありだから/そのことがあたたかしという世界のありように、シームレスにつながっている。

これらの句では、世界に起こる事象を、フラットかつ超越的にうっとりと感受する認識のありようが、切れのない文体によって提示されています。

今井杏太郎の、第五句集『風の吹くころ』は、この作家が四十歳を越えて「鶴」に入会して以来四十年余、繰り返し試され出来上がった文体によって、自分にできることを数え確かめているような句集です。

蝶が舞ふ海の隣へゆくやうに
みづうみの水がうごいてゐて春に
藤棚の下を通れば夜になりぬ


あらたまって言われても困るようなことばかりですが、本人がそう思ったのだからしかたがないのでしょう。この人の飛躍した表現は、だいたいいつも現実世界に対する私的な感想です。



この人のことを考えるとき、本人による「呟けば俳句」という言葉を通り過ぎるわけにはいきません。この人の書くものは、いったん呟きと言わてみれば、本当に、つぶやきとしか見えない。

「呟き」とは、ようするに、自分だけが聞く私的な言葉、ということでしょうか。



どことなく遠いよ蟬の鳴く村は
涼しい風の吹いてゐるゆふべかな
駅の名は信濃追分それも冬


この人の描く空間には、そこに誰か他の人がいるという感じがしません。この人は、ひろびろとして境界も定かでない場所に、他者も外部もなく一人でいる。

ほろほろと蜜柑の花の匂ふ村
辣韮の花のあかるい畑みち
野に暮るる水あり寒くなりにけり


また、この人の句には、調子の高いところや、人を驚かすようなところが、全くありません。当たり前のことを、ささやかに。それは、人に分かられ過ぎてしまうことを注意深く避けているようでもある。

だからどうした、という人を、はじめから相手にしていないのです。



西原天気さんがメールで、この人について「俳句的遁世」という印象を受けると書かれていました。言われてみれば、この人は、自らの作品の中に消失しようとしているというふうです。

私的であることを突き詰めることは、鏡となりつっかい棒となる他者を消してしまうことで、それは、自分がどこの誰だか分からなくなることでもあります。

消えたいと望むくらいなら、始めから何も書かなければいい、と思える人は、シアワセです。書かずにどうやって、この厄介な自分を消すことができるでしょう。



呟くことは、いっしゅん自分を、呟く自分とそれを聞く自分の、二つに分けます。すぐ元の自分にもどるのですが、そのとき、たしかに何かが軽くなる。

この人は、書くものから、世界と自分の接触面の感触だけを残して、あとのすべてを消してしまいます。

言葉が、口から思いがこぼれるときの感触を残すばかりのものになるとき、つまり、呟きとなるとき、それを聞く自分は、自己消失のよろこびを得る。

それは、この人の句が読み手に与える体験でもあります。



秋の日はさびしいよ鶏の鳴く
儚しや冬の柳の下に魚
星空が寒いよひとのゐない夜


とらえどころなくクールな印象を与えると同時に、泣き虫でセンチメンタルであることも、初期から見られる特徴です。この人はきっと、かなしいことをかなしいと言わない義理など、誰に対しても感じていないのでしょう。

それは、俳句を平然とプライヴェートなものへ向かわせる、いわば貴族性のようなものと思われます(そして、この人は、とてもかっこいい)。



あぢさゐのゆふべはけふも雨のなか
いくつもの船がこはれて春をはる

この人の言葉が、どうやって俳句としての構造を獲得しているのかについては、個々の句にあたってゆく必要があります。以前、ブログにも書きましたが(胃のかたち「魚座」の俳句(1)「魚座」の俳句(2)「魚座」の俳句(3))、たいへん複雑精妙なテクニックで、十七音を「もたせている」ことは、間違いありません。

〈あぢさゐの〉の句で言えば、〈ゆふべはけふも〉のところ、何もおかしなことは言っていないのですが、今日の一部であり現在である夕べが、昨日の夕べ、何日か前の夕べとつながってしまっている。現在に穴が空いて裏の方へ通じていてそこに手を入れているような感触が、一句の中心にあります。

〈いくつもの〉は震災を連想させるかもしれません。〈いくつもの船がこはれて〉という超時間的な非常事態(歴史上いくつもの船がこわれたとも、めったにない災害で同時に次々とこわれたとも読める)が、〈春をはる〉という循環的な時間の区切りで受けとめられているところに、確信犯的な飛躍がある。

そして、船が壊れることも、春が終わることも、人間の手に負えないことだという諦念の印象を残すのです。



自分が読み手として大変信頼している作家ふたりから、今井杏太郎について全否定に近い言葉を聞いたことがあります(曰く「嫌われない作風というだけの人気」「十七音も満足に埋められない作家」))。

この人の作品が、黄金なのか偽金なのか。その評価が決められるのはこれからだと思うと、自分はわくわくします。

死と共に忘れられる作家がほとんどである一方、時間と共にその輝きを増す作家もいる。そこには、ひょっとしたら黄金どころか、俳句にとって本質的に新しい、レアメタルのような未知の価値が秘められているかも知れない。

今井杏太郎は、自分にとって、読み継いで理解していかなければならない作家であり、また、そうありつづけるように思います。

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