2012-09-23

境界 対中いずみ句集『巣箱』を読む 生駒大祐

境界
対中いずみ句集『巣箱』を読む

生駒大祐




雨のすぢ風に吹かるる牡丹かな

水があるところには水面がある。水面とはすなわち水中と空中との境界であり、それはどんなに小さな水の粒にとっても同じことだ。

『巣箱』に水を詠んだ句ともにしばしば境界を孕んだ句が現れるのは、俳句がそもそも境界というものに敏感な詩形だというだけの話であろうか。

夕星を待つか蘆荻に吹かるるか
 

薄瞼にも光さす雛かな
 

みづうみの鳥のこゑする飾かな

一句目のような一句の中に境界性を持つ対句表現の句は単純に二つの現象をくっつけただけのように見えて、その接合面をぴったりと合わせるにはかなりの眼力が必要。二句目は瞼という人体と外界の境界を描くだけでなく、生物である人間に似せた非生物たる雛という、題材自体が境界的である。三句目のような下五の「かな」の前で急カーブを見せる句は新しい技法ではないが、「みづうみの鳥のこゑする」というフレーズはかなり読者の油断を誘う。驚かせる句だ。

緩急、という言葉がふいに浮かぶ。それは一句の中でもそうだし、句集全体を通しても、そうだ。それは句の幅、というだけではない。読者を驚かせ、躓かせ、立ち止まらせる技法だ。

大雪に埋もれむ人の世も毬も
 

鼻面に雪つけて栗鼠可愛すぎ

隣り合う二句だ。一句目の大局的な詠みぶりからの、なんという極私的つぶやき!句集の構成として、あるいは避けるかもしれない並び。しかし、おそらく作者はこの緩急を楽しんでいる。楽しいでしょ、と言われているような気分に、なる。

最初に挙げた一句。最初は要素が多いな、と思った。しかし、よく考えてみると、「雨中の牡丹」ということしかこの句は言っていない。読者は、「すぢ」でスピードを落とし、「風に吹かるる」で肩すかしを覚え、「牡丹かな」の絢爛に驚く。要素が多いのではなく、一句の立ち上げ方が技巧的なのだ。読者の読みを制御し、心理を操る技術が、この作者には、ある。

境界とは、変化点であり、展開部であり、平たく言えば、「何かが起こっている」部分である。句集の一句一句の境界、一句の単語単語の境界、それに意識的な作者にのみ、俳句で「何かを起こす」ことができる。


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