【落選展2012を読む】
その2 移動サーカスには憧れたものです
楢山惠都
サーカスの地べたのつづき葱を焼く 嵯峨根鈴子
≫読む ≫テキスト
移動サーカスには憧れたものです。旅の一座が夜っぴでやってきて、テントを組み立て、翌日にはサーカス告知のパレードのお祭り。親にせがんで木戸銭をせしめた子どもたちは、ひげ女、力持ち、などの入った檻をまじまじと見つめる。占い女に運命を聞いたりアイスを舐めたりしながら、夜はいよいよショーの開幕。そんな数日の興行が済んだら、やはり夜中のうちにテントは畳まれてしまって、跡には色紙の残骸だけ。
股旅のきもちで葱を焼く。食材をそのまま焼くことは、飛行機も自動車も無い時代の旅の薫りがする。
火を恋ふるとは口笛のとぎれとぎれ 同
寒さにかじかんだ唇のせいでとぎれとぎれになる口笛。わたしは口笛を吹けない側のにんげんなので、この晩秋の把握が羨ましい。冷えているほうがきれいな音になるのだろうか。風船ガムを膨らませるみたいに唇をすぼませてみる。新鮮な風が口腔を通り抜ける。
●
薄氷はそろそろ水にもどりたく 神山朝衣
≫読む ≫テキスト
水に戻りたいから緩みだすのか。緩むのをきっかけとして水に戻りたくなるのか。ある状態からある状態へ移行することの、ゆるやかさ。それを見つめるひとがいる。
目が合ふとしばらく語る蜥蜴かな 同
熊を見る熊に見られてゐる間 同
蜥蜴は見つめられている。なにかを見ること。視線を介してそのものを取りこんでしまうこと。同じように、熊にも見つめられているということ。
早春のひとの呼吸を聴いてゐる 同
山茶花や見えざる声の鳴きをはる 同
五感について言う句が多いなかで、「見えざる声」とあるので、聴覚と視覚は拮抗しつつも少しだけ視覚が強いのかな、と感じた。梶井基次郎の『視ること、それはもうなにかなのだ』という一文を思いだす。
歌うたふ子や夏蝶に嫌はれて 同
そのせいだろうか、視線以外の手段は嫌われてしまう。歌が、空気をふるわせ、夏蝶の蝶道を少し撓ませる。痙攣したかのように飛び去る蝶。
●
縄跳や入る子出る子見知らぬ子 中塚健太
≫読む ≫テキスト
小学校へは電車通学をしていたので地元の友というものがいない。近所の公園では、ある集団の横になんとなく居て、むりやり馴染んで遊ぶ、ということを繰り返した。向こうはわたしの名前を知らないから、そこの麦藁帽子の子!なんて呼ばれて。
掲句は大縄のことだろうが、確かに「見知らぬ子」が列にまぎれても目立たないだろう遊びだ。どんどん輪は循環し、最後尾がどこか判然としなくなる。たそかれ時に。
つばくらめ空に縦横斜めあり 同
外出するのがめんどうなとき、空飛ぶじゅうたんがあったならと溜め息をつく。わたしたちは平らな地上にへばりついているだけだが、縦横無尽に移動できるのが宙なんだろう。
風船の己(し)が影からも放たるる 同
風船がどんどん上空へ、すると地上の影はどんどん小さくなる。じぶんの影からも自由になり、風船は天国めいた場所へと向かうだろう。縄跳びも、鳥も、風船も、上昇する動きがあるような。
●
夏星の配線だけをつなぎ去る 谷口鳥子
≫読む ≫テキスト
この秋に初めて感じたことなのだが、星座とは恐ろしいものだ。あんなに無数の星をつないで空いっぱいに獣が配置されている。星ほどの人間はまだしも、星ほどの山羊。星ほどの鯨。星ほどの白鳥。生物学が進んでいない古代なんだからどれも怪物の様相を呈している。怪物が空いっぱいに浮かんでいて、どれも不動。
恐ろしさのあまりこの頃は夜空を見上げることができない。底なしの深海にひとり放り出されたらこんな気分だろう。星の配線をつないだ古代人は凄いなと感嘆する、いや、彼らも怖かったんだろう。だからこそ物語をつくりだしたんだろう。
サンドバックの奥に窓その奥に月 同
ボクシングジムに通ったことはないが、サンドバックを延々と叩き続けて意識朦朧、汗で部屋の湿度は高いんだろうな。黙々と殴っている視線の先に窓があって、秋の、水に濡れたように光る月がのぞく。肉体と乖離して意識は冴え渡っているのだろう。
●
西葛西葛西浦安鳥雲に 村越 敦
≫読む ≫テキスト
人工の海岸にはなぜだか鳥がよく住まう。曇りの日の光に似合いそうな句。繰り返される「西」がたのしい。
絵の中の夜明のいろと寒暁と 同
絵画のいいところは、枠があるところ。枠を乗り越えてみたくなるところ。枠があるからこそ、こちら側とあちら側を行き来できる。
世界ぢゆうの蟻の話をして眠る 同
眠れない夜は羊を数えろ、というが、あれはsheepとsleepが似ているからというだけ。そんなものに縛られず、よく眠るためのきっかけを日ごろから各々研究しておくことが肝要である。
広告の中の家族やシクラメン 同
「効いたよね、早めのパブロン」のCMが苦手だった。わたし以外の全ての娘は、あのように母を労るのだ、と罪悪感を持つから。シクラメンの濃いピンクも押しつけがましいように思えてしまう。
ハロウィンや空気つめたく灯はあつく 同
ハロウィンらしいとも思うが、それよりも、確かに十月末の街はこのようである、と思う。
●
新涼や言葉の出入りする身体 利普苑るな
≫読む ≫テキスト
ようやく秋の涼しさがやってきて、息がしやすくなった。大声を張り上げなくても会話できるのが嬉しい。言葉の元は発声なのだ。呼吸なのだ。
仮の名のままに猫飼ひ冬隣 同
猫ほど名付けの魔力が似合うケモノはいない、と思う。寄りつかない猫を、名前によってじぶんに結びつける。特別な存在とする。行きずりの猫にうっかり名前をつけると寂しくて悲しいのでおすすめしません。不在の猫に呼びかけることができるとは、言葉はなんて恐ろしいのでしょう。
すべての神話は、自然の神秘に名を付けようとしたところから始まったんだろう。
春めくや三色刷の献立表 同
そして言葉は紙に記録されていく。だんだん紙や書物はモノとして独立していき、愛好されていくのだ。
それ以上言へば死なむと雪をんな 同
啄木忌幾度も道を問はれけり 同
言葉はコミュニケーションツールだとされるけれど、そうでもないんじゃないか。「雪をんな」にまずいことを話してしまった、不興を買ってしまった、そのずれこそ言葉なんじゃないか。
何度も声をかけられ道案内をしながら、きょうはかの啄木の忌日だと意識している。ただ言葉に注意するのでなく、その交換や有り様に敏感なひとだと思う。
●
口中にモスク沸きたつ抜歯かな 藤 幹子
≫読む ≫テキスト
歯医者で口腔をさわられることを、どうしても好きになれない。紙エプロンをかけられ、仰向く。なぜ歯医者のライトはどこでも薄青と薄ピンクと薄きいろなのでしょうね。これと似た折り紙があったと思う。と毎回考えながらタオルを目元に被せられ、治療を受ける。口につっ込まれる器具はどうやら、水を噴出するのと、風を噴出するのとある。むりやり別の考え事をするうちに麻酔の注射をされ、歯をひっぱられる。
「モスク」が「沸く」のだから、たぶん、嫌な治療から気をそらすために大きな何かをもくもく想像しているのかな、と思う。
この人を見よ鯖雲へ火の腕 同
わたしが連想するものは、『この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる』とうたう賛美歌121番の歌詞だ。『馬槽の中に 産声あげ 木工の家に 人となりて 貧しき憂い 生くる悩み つぶさになめし この人を見よ』という一番の歌詞から『馬槽(まぶね)の中に』と題がつけられる。『この人』は無論イエス・キリストを指す。
わたしの母校はプロテスタント系の学校だったので、礼拝は大切な習慣だった。静謐な時間がきらいではなかった。中学一年生のクリスマス礼拝だったろうか、皆でお祈りを済ませ、黙祷をしたときのことだ。まなうらには、現在わたしがいる礼拝堂が映っていた。それを俯瞰していたところ、礼拝堂の高い天井まであるようなにんげんが見えた。雲が降りてきたかのようにもくもくとしていて、細かい造作は見えない。そのひとはにっこり笑み、祝福を垂れるかのように、皆のいる席に片手を置こうとした。
そこで怖くて目を開けてしまった。
掲句にあるような夕焼けの鯖雲こそ神の御姿に近いのかもしれない。
●
鳥交る色屑溜めてシユレツダー すずきみのる
≫読む ≫テキスト
わたしの職場にもシュレッダーがあるが、紙屑がパンパンに詰まるのでどんな鳥も巣を造れそうにない。掲句の「シユレツダー」は透き間のありそうな感じだ、まだ溜められそうな。せっぱつまっていない、ゆったり時の流れる場所にあるシュレッダーなんだろう。小まめにゴミを捨てるような。色紙の巣はイースターのお祭りも思わせる。
八十八夜少女に紫だつ会話 同
いよいよ春の動きが活発になろうとする八十八夜と、少女の華やかさ、かしましさが重なる。やっぱり恋の話かしらん……。
はつゆきを競馬新聞にて避ける 同
衣服の一部であるみたいに競馬新聞を持ち歩くひと、いますね。初雪に気づいてから競馬新聞を傘にするまで少しの逡巡もなかっただろう。
(つづく)
0 comments:
コメントを投稿