2012-12-23

【落選展2012を読む】 落選展よ水戸橋よ(其の四)  島田牙城

 落選展2012を読む
落選展よ水戸橋よ(其の四) 

島田牙城



ところで水戸橋のそばに水戸納豆は売つゐるだらうか。

関西人は納豆を喰はないといふのは嘘(喰はない人も多いことは確かだが)で、子供の頃から普通に藁づとに入つた納豆やら、経木(へぎ)で三角に包まれた納豆を売つてゐたし、それを喰うてゐた。

いや、言葉の重さとか粘り気といふものについて、ここまで十八編読んできて考へてゐるわけですよ。

もちろん、粘り気があればそれで良し、なわけもなく、たとへば佐藤文香の俳句といふのは、本来なら粘る筈の納豆に大根卸しを加へたさつぱり感があるんだよね。

でももともとの粘り気はあるでしよ。

その粘り気に味付けするものは、大根卸しでも刻み葱でも芥子でもおかかでも、出汁醤油でも生醤油でもいいのだけれど、といふかそこは千変万化となるのだらうが、もとの粘り気といふのは、やはり俳句作りには大切なのではないかしらん、と思ふんだよ。

たぶんそれは思考の深さとか、ものへの執着心とか、いろいろなことが交錯して醗酵する粘り気なんだらうね。

あと数編読んで、最終的には何編かをピックアップすることになるんだけれど、

今朝喰つた納豆のねばねばを口中に残しながら……

さて、続けます。



離ることなし流灯と映る灯と  生駒大祐

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この句に流れてゐる抒情の質は、類句のあることを感じさせはするものの、確かな描写ではある。(大丈夫だよね、みんな。上五の読みは「さかることなし」だよ。)

鶏頭花手話に独言なかりける  生駒大祐

いや、まいつたね、これは。この句は普遍的だよね。これだよ、これ。一番始めに書いた、「離れてゐるのに付いてるみたい」な俳句。「何で鶏頭なんだよ」と問はれたら、へんな理屈は捏ねないで、笑窪を浮かべてにこにこしてりやいいやね。裕明はさうして遣り過ごした。

で、絶対に言つてはならない言ひ訳が、「だつて、手話してゐる人の横に鶏頭が咲いてゐたから」つていふ状況説明。そんなことはこの句には何の関係もないんだから。

下京や氷柱肥えゐて一つ根に  生駒大祐

も間違ひのない上品。〈下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆〉は当然知つた上の句だらう。現代の下京で氷柱がそこまで太ることはまづなからうが、遡ればさういふ時代もあつたことだらう。

ただ、この人の句を読み通して湧いてくるのは、自身でこれらの句から手応へを感じてゐるのだらうかといふ疑問なんだ。落差が激しいといふこと。

この人へも、勿体無いなあといふ感想を吐いておかうか。



さて、次の高井楚良さんからは、一句も抜く句がなかつた。

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かういふ句群といふのは、読んだあとに虚しさしか残らないんだ。

人ゆたか國は貧しく〉〈思はざる國となりたる〉〈この國あつての願ひ〉〈憎むべき都会〉〈寄り添へば家族〉〈神よりも人を尊ぶ〉〈生きてゐる証の涙〉などなど。

かういふ句の間あひだにいい句も混じつてゐたのかもしれないけれど、それをわざわざ抜いてきて「いい句があるねえ」なんて言ふほど、読者といふのは優しくはないんでね。

それをやるのは内輪意識。僕はさういふ意味では内輪ではないといふだけのことです。

えつと、言ひにくいのですが、俳句といふものと、もう一度零から出会ひ直されたはうがいいのではないでせうか。

たとへば、今井聖さんが大好きな誓子をわざと避けて楸邨門に入つたといふやうな、自らへの荒療治を試されることをお勧めします。

それとも、冒険心からかういふことをやつてみたくなつたのか、普段雑誌で拝見する句ともえらく違ふやうだし、空回りの一連といふことなのでせうか。

(あとから追記するのですが、この一連が予選を通つてゐるのですね。予選者が間抜けなだけですから歓ばれないはうがいいと思ひます。)



万緑のなかに一樹を植ゑてきし  川奈正和

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この人は面白い。ご自身の中にいろいろな物語を溜めてをられる人なのかなと思ふ。

最近、長谷川櫂さんの『震災句集』に触れて、森を見て木を見ないのであれば俳句は作れないんだよね、といふことを、ある年間時評(「口語俳句年鑑2012」未刊)に書いて、自身ですごく納得してゐるんだけれど、川奈さんは一本の木を見るだけでは満足出来ずに、自分の木を植ゑてしまつたんだな。その気概や良し、である。この一樹、輝いてゐるね。

劇いまだ劇中劇や花は葉に  川奈正和

の「のんびり感」も魅力的だなあ(少し季語は甘いが)。

北窓を開きこの地に降りて来よ  川奈正和
恋のあといちにち風の中の猫  同
胡桃割る廃仏毀釈とも違ふ  同
逢ひにゆく紅天狗茸ふところに  同
手旗から手旗へ伝へきたる東風  同


一句一句の質量が、五十句を通して安定してゐるのもいいですね。

句の中心がぶれないといふことも感じる。たとへば〈手旗から手旗へ伝へきたる東風〉でいふと、「手旗から手旗へ」といふ見立てが斬新なだけではなく、「東風」へ納まるまでの「伝へきたる」がすごくゆつたりとした時間を読み手にもたらしてくれてゐるから、「東風」といふ最後に置かれた二音が際立つてくる。そしてこの時間の流れが、仲春の気を十全に語つてゐるんだよ。で、この作者が「東風」を書くといふ一点に集中してをられるといふことが見えて、一本の屹立する言葉として背筋が伸びてゐる。それがすごく清潔だなあと感じ入る。

まだまだ線が細くて折れやすさうではあるのだけれど、年輪が重なることで自然と太くもなるのだから、無い物ねだりをする必要もない(ぼくはこの方がまだ若い人だと思ひ込んでゐるふしがある。もしも年配の方だとしたらそれは羨むべき年の取り方なのであつて、穢れを知らぬお年寄りといふことになる)。

もう少し一句に拘らうか。

若菜摘み一夫多妻のごとくにて

など、作者の教養の上にのつかつた遊び心も垣間見られる。細かな事はいいとして、若菜摘つて乙女の作業だつたのだもの、そしてこれが求婚にも結びついてゐたことを当然作者は念頭に置いてゐる。一夫多妻とはまた豪勢で羨ましい若菜摘だけれど、この句にスケベ心はみられない。句が明るいからだらうな。

うん、この人の句にはどの句にも光が差し込んでゐるね。その光のシャワーを浴びて、僕を幸せにしてくれるんだ。

まあ細かなことをいふと、僕は「み」の送りが気に入らないけれどね。これは作句上の盲点として常に気に掛けておかれるといい。送りを伴ふと「名詞なの? 動詞なの?」といふ混乱が生じるんだよ。前に連体形の用言が置かれてゐれば(たとへば「楽しき祭り」のやうな、ね)送りがあっても名詞だと知れるけれど、さうでない場合は、ヤバイんだ。この句の場合も、揺れるよね。「み」を取ると漢字が続くといふ不安もあつたのかな。それにしても「若菜摘一夫多妻のごとくにて」としたいなあ。さういふ一字一音への気遣ひは、大切にしてもらひたい。

口中の水澄みわたれ黙秘権
雨降れといへば雪降る淑気かな


なんて、理屈っぽい(口→黙秘、雪+淑気=お降り)といへばそれまでなんだらうけれど、言ひきる潔さが理屈を越えて読者に光を届けてくれてゐるんじやないかなあ、好きだよ。



紫陽花の見える満員電車かな  大穂照久

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この句はすつきりしてゐるし、主人公の位置(満員電車の中でまさに今押されてゐる人として)も見えるし、はたしてこの主人公の思ひや如何に、なんぞとこちらの思ひを巡らせてみたくもなる句だな。同じ意味で、

鳥小屋の床に木くずや秋の暮  大穂照久

もしつかり書けてゐる句として推奨できるのだけれど、〈ともすれば夕立ややもすれば愛〉は、今読み返しても自身で良い句だとおもへるのだらうか。僕からすれば「やめてよね」といふことになるんだな。

卒業の日の焼肉をうらがえす〉なんて、一瞬書けてゐるやうにも見えるだらうけれど、同じやうな無惨な屍が山をなしてゐることは、知つておかれるべきだらう。いや、「どこにあるんですか、見せて下さい」と言はれても提示はできないんだけれど、〈卒業〉から〈うらがえす〉といふ連想のベクトルが陳腐なんだよね。

だからこの人の場合は、自選力をつければ化けるかもね。



トーストの上のバターのやうに蔦  山下つばさ

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山下つばさの俳句はリアリズムなんだよと、かつて評したことがあつたし、この句なんてまさにその僕の言葉を実証してくれるやうな把握力だよね。だけど、だけど、

今回の五十句は自分だけが面白がつてゐるやうな句が多かつたぞ。

応募しておくだけはしておくか、といふやうな、なげやりな纏め方もまつたく気に入らない。

〈ワンピース〉のすぐ後に〈ONE PIECE〉だつたり、
〈ぽたりぽたり〉が二度出てきたり、

そんななげやりな態度は一句にも現はれてしまふものなんだな。

(ここ、間違へてほしくないんだけど、俳句でとある主人公のなげやり感を表現するのはいいんだよ。投句の態度がなげやりじやんと言つてるんだからね)。

アネモネの白が厨を白くする〉なんか、こんなのだつて俳句になるじやん、とでも言はんばかりに適当なんだよ。

新宿西口空蟬を髪につけ〉は、一応印を打つたしいい句だよ。でもなあ、〈空蟬を髪に付け合ふ遊びかな〉が先にあれば、贔屓したくても採れないよね。



といふことで、二十三編を駆け足で読んできました。

飯島葉一郎さん、谷口鳥子さん、佐藤文香さん、川奈正和さん
の四編は読み応へ充分だつたな。

文香さんのことはよく知つてゐるし、この人の場合は賞のどうのかうのは関係なしに、常に〈俳句〉に対して全力投球してゐるのだから、まあ、また自分を揺さぶればいいさと言つておくかな。二十代もまだ数年残つてゐることだしね。

さうさう、長谷川櫂さんの言葉はことばとして、あんまりお勉強はしないでね。研究はどんどんするべきだらうけれど、もう「まねぶ」時期は過ぎてゐると思ふから。

では、あとのお三方の略歴でも見に行つてきます。(暫し待たれよ)

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飯島葉一郎さん、1987年生まれ。京都市在住、ただこれだけ。いいなあ、かういふの。え、まだ24歳ですか。

あのね、「肉じゃがの気持ちになりかわりて」といふ前書はまつたく要らないよ。

明け方の夢 廃屋に蝶満ちて〉は好きな句の一つなんだけれど、この空きは不要だね。

タイトルになつてゐる〈ふくろうや舌のごとくに日が垂れて〉はね、この比喩は陳腐なんだ。シュールレアリズム時代の絵にあるよ。

夕焼けに万の背中の潜みけり〉は大好き。〈潜みをり〉とどつちだらうか。自分で考へてみてください。

長き舌見せ合っている祭かな〉〈まぶたなき夜が牡丹の上に浮く〉あたり、もう、ぞくぞくします。

名前つけてやろ焚き火の中を行く塵に〉これは駄目だ。〈名前つけてやろ〉に作者が出てしまつてるね。作者は裏で操作していたらいい。前に出て来ると独りよがりになる。

それにしても、楽しませて頂きました。

いろいろ言ふ人はゐるだらうけれど、気にせず作句時の手応へを大切になさるといいと思ひます。

谷口鳥子さん。この人も作品からいくと関西だよね。そして今のところ性別不詳。どつちでもいいのですが、見てきます。(暫し待たれよ)。

谷口鳥子さん、1970年生まれ、兵庫県出身、主婦(時折、実家の介護手伝いや、工場アルバイト)、趣味、ボクシングジム通い、かあ。

いや、貴女には貴女にしか書けない世界があるのだから、突き進めばそれでいいですよ。

貴女の句はね、本当に雑なの。でもね、何が、何処が雑なんかは言はないね。そんなん、気にせんでいいんです。

雑といふこと以外で少し言うとくと、一句目が破調といふのは、拙い。そんなことで嫌はれるとか、先入観を持たれるのつて、つまんないよね。

得体の知れぬ〉は、具体的に書かないと駄目。どう得体が知れないのかが解らない。

夏星の配線だけをつなぎ去る〉つて、なんだらう、最後だけメルヘンて、おかしいでしよ。で、それがタイトルといふのも、変でしよ。最後まで、貴女は貴女でゐるべきですよ。

そして川奈正和さん、愛媛県松山市生まれ、無所属。年令不詳ですね。

背番号見せ合ふことも愛の日に〉の〈愛の日〉が解らない。愛日(冬の日)のことをかうは言はんしな。

(グーグル検索すると、バレンタインデーのことをかう言ふとか、……、うーん、気持悪くない? 「見せ合ふ」なんてさあ)

草摘みて天に倒れり羽衣伝〉の〈倒れり〉は文法ミス。

ほかにも意味不明の句が混じるけれど、僕は今回の中でならこの人を推す。

賞といふのは、葉一郎さんや鳥子さんを語り尽くしたあとで正和さんに栄冠が輝く、といふぐらゐのはうが面白いのではないか。

これからの俳句に表現の幅をもたらす物としての新人賞であつてほしいなと思ふし、

このお三方は予選にも通つてゐないやうだけれど、選外にかういふ「可能性としての俳人」がたくさんゐるのだといふことを確認して、僕は今ほつとしてゐる。

新人賞といふのは、行儀が悪いはうがいいに決まつてゐるんだよ。

さうさう、最近歌人の鵜飼康東さんが、「最も重要な基準は可能性だ。「下手だが、どこか見どころがある」と審査員に思わせればしめたものだ。逆に「うまいがこれが限界だな」と思わせればおしまいだ。」てツイートなさつてゐたけれど、ぜひ俳句系新人賞の審査員の方にも読んでほしいですね。

その作品から伸び代を感じられるのかどうかといふのは、すつごく大切な部分だと思ふんだよね。

妄言多謝

水戸橋あたりの一杯呑屋で、またお会ひしませう。ありがたう。

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