2012-12-23

【2012落選展を読む】大穂照久 生駒大祐 司会:村田篠

【2012落選展を読む】
下駄箱の名札から白物家電まで 
(08ハードエッジ 09嵯峨根鈴子 10神山朝衣 11中塚健太)

大穂照久 
生駒大祐
司会:村田 篠


この対話は、2012/11/10から2012/12/8にかけて、ネット掲示板及びskypeのメッセージ機能を通じて交わされたテキストを、再構成したものです。


村田:「2012落選展を読む」の第2ブロック、08から15までの8作品は、大穂照久さんと生駒大祐さんをお迎えし、村田の司会で読んでゆきます。

大穂さんは2008年4月に「第2回 週刊俳句賞」を受賞されました。久しぶりの本誌登場です。生駒さんはみなさんご存じの通り、この春まで「週刊俳句」のスタッフとして活躍してくださいました。よろしくお願いいたします。

大穂:本当にひさびさの「週刊俳句」です。よろしくお願いします。

生駒:生駒です。よろしくお願いいたします。

村田:では、順番に読んでいきましょう。



08
ハードエッジ「あかさたな」
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大穂:まずは、好きな句から。

あかさたなはまやらわみなあたたかし
たし算はもらつてばかりあたたかし
くらやみのうえのくらやみ雛納め
王様のような歩みを毛虫かな
白粉花が咲いて運転手は君だ


着眼点が魅力的でした。

村田:くらやみ〉の句は私も少し惹かれました。これ、どういう状況なんでしょうか。

大穂:納戸の暗闇に雛の箱を入れると、その上にも暗闇がある。そこに面白さを感じました。闇の重層的な感じが。暗闇が、重ね餅のように二段になっている状況ですね。

くらやみ、というとふつう一塊のものを想像するんですが、作者はくらやみを分けて捉えている。この視点は面白いです。

生駒:うーん、僕は構造的な何かを言おうとして失敗している句だと思います。〈白粉花〉の句は?

大穂:君があきらかに年下である。彼にとっては、決定は命令的で、運命的というか、そこが面白いなと。覆しがたい何かを感じます。

生駒:視点が神っぽい。話し言葉の導入はどうなんでしょうか。

大穂:話し言葉はダメ?

生駒:ダメというか相当うまくやらないと僕は認めないので。この句はそんなにグッと来なかった。

大穂:成功しにくいのは確かだけど、この句はアリだなぁ。生駒くんの好きな句は?

生駒:

遠くある電車の車庫や揚雲雀
春かなし下駄箱の名札みな剥がされ
空蝉を水に流してやりにけり
ソーダ水深きところを吸はれけり
のし餅ののされぐあひを押してみる


揚雲雀〉の句、「遠くある」が良いですね。遠いけれど、確かに、ある。その不思議な距離感が面白いです。

大穂:いいですよね。ある、の把握がとてもいい。「在る」の方ですね。

生駒:見ているというよりも「存在する」。

大穂:見るという行為は二次元的ですが、「在る」と言われると、より世界を把握しているのではないかと思います。

生駒:空蝉を〉の句はどうしても〈蝉の殻流れて山を離れゆく 敏雄〉と比べてしまいますが、中七座五は慣用句ではなく、単純な事象と取りたい。何でもない行為のようで、意外と異常なことをさらりと言っています。「やりにけり」の上から目線が謎で面白い。

あとは〈ソーダ水〉の句。当然のことを言っているだけれど、深きところという把握は意外に面白いです。受け身になっているのも、良い意味で変だし。

村田:ソーダ水〉の句、私も好きです。あと〈のし餅〉の句も。

よくある行為ですがちょっとしたこだわりがあって、そのこだわりにその人の非常にパーソナルな部分が窺われるように感じます。

生駒:春かなし〉の句は、春になって、生徒が入れ替わるために名札が一時的に剥がされていて、想像するとその風景は確かに物悲しい。ただ、上五であからさまにそれを言うのが正解かどうかは難しいところです。

大穂:春かなし〉の句には微妙な力関係が感じられるのが魅力でした。

生駒:微妙なとは?

大穂:そういうルールがある、みたいなことでしょうか。ニッチ。

村田:「ニッチ」というのは

生物学では生態的地位を意味する。1つの種が利用する、あるまとまった範囲の環境要因のこと(wikipedia)

ということでいいですか?

大穂:はい。個人的に、ニッチな場面の掬い方は非常に好きです。

運転手は君だ〉〈名札みな剥がされ〉あと〈社員食堂の列が進むよ衣更〉など。
社会のしがらみといってしまうと大袈裟ですが、ミクロな場面に現れる社会的な力学、ルールに近いもの。そういう微妙な関係が感じられる。

村田:面白い読み方ですね。確かに、子どもの視線を装って、大人のルールのようなものを感じさせられるところもあります。

長生きの屑と云はれし金魚かな〉などは「屑金魚」に引っかけた句で、淡々と詠まれているだけに、少し切ない。

生駒:つまり、社会通念をひねらずにそのまま書き出しているという魅力なのかな。それは、おそらくは共感を呼びやすい。読者を誘導するような俳句です。

その一方で、〈二つある小さな方が春の橋 信治〉のような句がある。

大穂:上田信治さんの応募作「二つ」の1句目ですね。

生駒:はい。社会通念を踏まえていないが共感を呼ぶ句です。

こういった句づくりは読者に負担をかけますが、僕は共感できるし、好きな句です。

大穂:小さな方「が」、はうまいですねえ。「が」が切れ字っぽく感じます。散文的な句のなかで「が」が切れみたいなものをうみだしているような気がします。

村田:そのほかに、何か気になったところとかありますか?

大穂:全体としては面白かったですが、何かがつまらない。

生駒:平凡な句が混じってくると印象が落ちるというか。

村田:平凡というのは?

生駒:感動する箇所が個性として立ち上がるに至っていない、通俗な部分にとどまっていることです。

大穂:慣用句的な表現が多いためでしょうか。読み手の意見が分かれるところかもしれませんが。

村田:そこは私も気になりました。

生駒:長き夜の好きこそものの上手なれ〉とか。

大穂:表題句の〈あかさたなはまやらわみなあたたかし〉の句は好きですが、二句目の〈早う雛飾れといふにうちはうち〉や〈好きこそものの上手なれ〉はあまり成功していないかな。どこか安全圏で遊んでいる。

生駒:でも、〈運動会お昼休みとなりにけり〉には、当たり前すぎて意味不明の面白さがあると思う。こんなんいちいち言うか?という面白さですね。

忘らるることも涼しと思ひけり〉は?

大穂:その句と〈悪い子はバナナの如く食つてやる〉この2句はやはり駄目じゃないでしょうか。あと〈星祭とはまだ書けずおほしさま〉の「おほしさま」の斡旋とか。意図が見えすぎてしまう。

村田:生駒さん、全体としてどうですか?

生駒:俳句イズムに染まってない50句だと思います。

村田:そうですね。私は随所に「無邪気な好奇心」を感じる句群だと思いました。大人になった自分のなかの子どもを感じているようすが窺えて、面白い感じになっているな、と。

生駒:算数や夏休みの句が多いことから、子供の存在を全体として明示・暗示しつつ、句の中では子供の感覚と大人(おそらくは親)の感覚を往来しながら大人・子供にとって自然な形で四季を詠もうとしているのではないかと思いました。

大穂:いわゆる俳人的な目線じゃない句が多いですよね。

いっぽうで、俳句における手垢のついた表現というものを知らないのかも、と感じました。

村田:知らないから使ってしまう、ということですか?

生駒:俳句らしい丸い収め方を知らない、ということなのかも。もちろん、技巧だとは思いますが。



09
嵯峨根鈴子「手と足と」
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村田:ではつづきまして、「手と足と」。

大穂:好きな句は

サーカスの地べたのつづき葱を焼く
銃声のとどまる空に冬の虹
うしろにも坂道つづくかじけ鳥


ですね。

生駒:サーカスの〉〈うしろにも〉は僕も好きです。

大穂:ただ、季語の斡旋がイマイチだったな、と思います。

銃声の〉の句、銃声の残響をとどまると表現するのは面白いですね。音のスピードは意外と遅いものです。ですが、季語は素直すぎるかな、と。幻想的なイメージを出してはいますが。

生駒:季語の斡旋について、同意見です。

うしろにも〉の句、坂道を歩いてきて、振り返ると当然うしろにも坂道が続いている。当然なんだけれど、一瞬自分の居場所が判らなくなっている感じがあって、上手いと思いました。
ただ、「かじけ鳥」はやはり水辺にいる気がするので、ちょっとむずかしい。

大穂:確かにそうだね。

生駒:季語がヘンで、そこが個性になりかけて未だなりきれていない印象です。

大穂:子規の忌の入浴剤のマリンブルー〉、この季語も変ですね。

村田:サーカスの〉は私も好きです。好きというか、気になる。この句についてはあとでゆっくり話してもらうとして、生駒さん、ほかにお好きな句はありますか?

生駒:あとは、

かなかなや握手の右手放すとき
寒禽のこゑ嗄らしたる水面かな
金糸雀のふくれて春の手套かな


あたりです。

かなかなや〉の句は映画的ですよね。「握手の右手話すとき」という措辞が適度に劇的で、適度に冷静。その瞬間にかなかなが聞こえてくるというのも面白いです。

大穂:握手の右手はあまり好きになれなかった。シーンが想像できすぎてしまうし、かなかなや、がよくわからない。

生駒:次の〈寒禽の〉の句。寒禽が声を嗄らしているというのは常識的だけど、「水面かな」という納め方をしたことで「湖ひとつに寒禽がひとつきり」な感じで、広がりがあります。

大穂:この句はあまり評価できなかったです。想像の範囲内というか、よくある句という感じがしたので。

生駒:俳句らしい俳句の範疇、ということですか? なるほど、少し分かります。

金糸雀の〉の句は、最初の幸せな感じから、ちょっと物質感のある手套に視点が移るところは、巧みだと思いました。

大穂:この句のよさは、金糸雀と手套のふくれ具合が通じているところですね。

村田:私は〈薇の灰汁より夜のはじまれり〉が好きでした。

薇の灰汁って赤いんですね。夜との取り合わせが印象的です。夜のはじまる俳句はよくありますけど、この句は面白いところを詠んでいるかな、と思いました。

ということで、いよいよ、〈サーカスの〉の句にいきましょうか。いかがですか?

大穂:サーカスの地べたのつづき、がいいですね。

われわれの暮らしとサーカスは天幕の布一枚で区切られている訳ですが、地べたはそうではない。文字通り、日常と非日常が地続きになっている。それらが溶け合うような曖昧さが魅力です。

ただ、葱を焼く、がなあ。唐突すぎる感じがします。

生駒:その部分、僕は許容します。

「サーカスの地べた」という表現は微妙に難があるのですが、サーカスと地続きで葱を焼いているという情景は、面白くかつ、考えてみると意外とあるかも、と思わせてくれます。

大穂:うーん、地べたのつづきで本当に葱を焼いているのだったら、僕はとれない。

生駒:では、実際はどういう情景ですか?

大穂:比喩というか。葱を焼く行為そのもの、それはあくまでもイメージのような。

生駒:サーカス場の傍の屋台で葱を焼いているわけではない、と。

大穂:そう。サーカスの地べたのつづき、はあくまで心象風景というか、現実の屋台の葱に落とし込むとつまらない。

生駒:僕は逆にその現実感が面白い。

村田:私は、大穂さんのご意見に近いですね。「地べたのつづき」でいったん切れている。

葱を焼いているある瞬間に、ふと、いま立っているこの地面はサーカスに繋がっているんだよね、と感じた。「サーカス」は自分とはひどく遠いもののイメージで、でも、どこかでこの日常に続いているんじゃないか、と。

何となく、サーカス場の傍らの地面のことを「サーカスの地べたのつづき」とは言わないような気がするんです。

大穂:サーカスのフィクションっぽいイメージからの「葱を焼く」という現実っぽさ。やっぱり唐突に感じるなぁ。地面から葱へのつながりも、つきすぎに感じます。

村田:おふたりの正反対の読み方は、「サーカス」という言葉をどう感じるか、というところにかかっているんですね。現実の風景と読むか、イメージなのか。

大穂さん、作品全体としては、なにかお感じになりますか?

大穂:さっきも言いましたが、やはり季語のことですね。もう少し季語に遊びと推敲を加えてもいいんじゃないかと思いました。

また、句跨りの句や無季の句もありましたが、乱れ方が足りない気がします。せっかくの無季の句なのでもうすこし冒険してもいいんじゃないでしょうか。

村田:わりあい落ち着いたトーンの句が多かったかもしれません。

私が思ったのは、雰囲気は分かるのだけれど、うまく言いきれていないかな、と感じる句がいくつかあったことです。〈雉鳩の胸に深入りしてしまふ〉〈ブレーキのあそびすこんと夏燕〉などは少し分かりにくい。

生駒さん、どうですか?

生駒:篠さんもおっしゃる通り言いきれていない感じのする句があって、〈みづかきとしばらく歩く崩れ簗〉〈雁瘡をいたぶるやうにサキソフォン〉〈雪の朝猫にも美しきことば掛け〉などが惜しい。

また、季語の斡旋ですが、〈冬うらら青虫しがみつくばかり〉〈あしあとの綺麗に消えて百千鳥〉なども外しているかもしれないな、と。

全体として、生活と季語が不思議に共存している場面を描くのが巧みな方だと思いました。



10
神山朝衣「声影」
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村田:次は「声影」です。

大穂:落選展のなかでは、個人的に1,2を争う50句でした。好きな句を挙げてゆきます。

残雪の輝きを踏みつくしたる
永き日やミニカー未だ並べてゐる
犬の名を長きを呼びて爽やかに
母と行く道どこまでも葱畑


生駒:トーンは今回読んだ作品の中でいちばん整っている、と思います。

大穂:淡くて、かつ劇的なんですね。

残雪の〉の句、輝きを踏むという表現から、残雪の硬い質感や踏む音が感じられます。

永き日の〉にはミニカーを並べる事に没頭していて、まるでそれが際限なく続くような不思議さが、〈母と行く〉には歩くこと、移動することそのものが別の意味を持つような不思議さがあります。

村田:犬の名を〉は私も好きです。「名前を呼ぶこと」には意味というか、心をゆさぶる要素があって、そのことをこの作者はよく知っておられる、という感じがします。「犬の名前が長い」というのは、なにげないですが面白いですね。

生駒さん、いかがですか?

生駒:上の4句では季語と日常の言葉が自然に同居していますよね。

大穂:例えば、「ミニカー遊び」や「母と行くこと」、それそのものが別の意味を持つような。そのときに時間が相対的になる。

生駒:母の時間、私の時間、子の時間が。

大穂:複座の視点があります。

生駒:僕も好きな句を挙げますと、

ともだちの名をゆつくりとはつざくら
一羽づつ雲となりたる朧かな
永き日やミニカー未だ並べてゐる
歌うたふ子や夏蝶に嫌はれて
犬の名の長きを呼びて爽やかに
秋蝶の生れるとひらく蕾あり
鳥を呼ぶ冬木や昨夜の雨落とし
冬蜂を吹いてきらりと光らせて


などです。

少し淡すぎるかな、と最初は思いましたが、50句で読んでみるとこの繊細さ、端正さが際立って、清々しい読後感がありました。

上に挙げた句は明快で分かり易い一方で、その意味の繋がりには微妙に段差があって、その段差は躓かせるのではなく立ち止まらせる力を持っています。

村田:「微妙な段差」というのが、さきほどの大穂さんの「複座の視点」と通じるところでしょうか。

早春のひとの呼吸を聴いてゐる〉という句が好きなのですが、この句にも、少しそういうものを感じます。呼吸する人の時間と、それを聴いている自分の時間がそれぞれ別にある、というような。

冬蜂を〉の句も好きですね。「きらりと光らせる」という常套句がとても魅力的に響きます。

大穂:ケチをつけるなら、「ふつう」の句が逆に目立ってしまうところでしょうか。

村田:ふつうの句というのは、例えば?

大穂:人の子を叱ってもみし花臭木〉や〈初冬や子の問ひかけをそのままに〉あたりです。

生駒:吾子俳句は成功しにくいですね。

大穂:なんでだろうね。共感(できないから)かな? 普遍性を見つけられにくいから? 吾が子は特別だから。

生駒:子供の描写に普遍性があると良い句になるんじゃないでしょうか。

大穂:それから、〈冬蜂を〉の句はあまり好きじゃなかったです。『城之崎にて』のような……。

村田:あ、この句は蜂の死を詠んでいるのですか……。

生駒:風と光の離れ具合がいい。

大穂:どちらかと言えば、ついている言葉じゃないですか。風光るとかいいますし。それから、「吹いて」というと作者が吹いてるような感じがします。

生駒:無邪気さに落とし込みたいというのは感じられます。

村田:無邪気さ……うーん、そうですか。

大穂:50句全体としては、破調や季語の斡旋が整っていて、読みやすい作品でした。

生駒:それに、うっすらとした幸福感がありますよね。

大穂:その一方で、トーンが一定でないのが、残念でした。

村田:一定でないというのは、さきほどの「微妙な段差」を越える句と、「ふつうの句」が共存しているということですか?

大穂:そうですね。そして、読んでいて安心感というか、劇的な言葉も多いんですが、安全な場所を感じさせる50句でした。

生駒:ああ、そんな感じがしますね。



11
中塚健太「風の渚」
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生駒:では、今度は僕からいきます。好きな句は

煎餅のなぜか瓦を模して雪
白鳥に恋せし白物家電かな
黒板の日付の消され卒業す


このあたりは面白い俳句として成功しているように思います。

特に〈白鳥〉の句は、「白物家電」というような、通常俳句では成功しにくい日常の熟語を読み込んでいて、不思議な到達感がある。

大穂:この句は白鳥と白物家電の白つながりですが、恋をしているというのが妙に説得力があります。なんとなく冷蔵庫を思いました。エアコンじゃなくて。

村田:「白鳥」とか「恋」とか、甘いイメージの単語を、専門用語っぽい「白物家電」に合わせてうまくいっているのが面白いですね。
「白物家電」を生きもののように扱っても違和感があまりない。それだけ身近な存在、ということなのかな。

生駒:一方〈黒板〉の句は、かなりきれいな着地を見せていますね。

大穂:僕もその句、好きです。

生駒:名前が消される句はよくありそうですが、日付が消されるとしたことで、卒業生にとってのある時間の「停止」と学校にとってのいつもの「更新」の差を上手く描いています。

大穂:この句の良さは、卒業の「その後の時間」が感じられるところではないでしょうか。日付を消す行為が、教室に次の最高学年を迎えるための儀式のように思えます。

村田:「日付を消す」がいいんでしょうね。その行為によって句の中に複数の「時間」が立ち上がった。

大穂さん、50句全体を読まれての感想はありますか?

大穂:ちょっとおっさんっぽいな、と。

措辞が慣用的なので読んでいてきついところがあります。また言い尽くされた表現が多いので、もうちょっと工夫が欲しいです。

村田:この方の句は、何かを言っていますよね。言い止めたいという意志を感じます。ただそれが少しストレートに「人生」を感じさせ過ぎる、というか。

生駒さん、いかがですか?

生駒:そうですね。作者の感情が句の中に溢れすぎている句が多いように思えます。しかも浪花節っぽくなってしまっているのは惜しい。

村田:それは例えば?

生駒:君逝きて奔流となる天の川〉〈人生が嫌ひで好きで鰯雲〉〈男とは極楽とんぼ原始より〉あたりですね。

大穂:自己を詠んだ句ですよね。そういう句が多いので、その自己を愛せない人にはきついです。

一方で、自分以外のものを詠んだ句は面白い。〈黒板〉〈白鳥〉の句がそうですが、〈滔々と河童ながるる春の川〉もいいですね。
「河童の川流れ」という言葉を思い出すとツマナライですが、滔々と流れる春の川の中で流れる河童のイメージは非常に好きです。春の川がきわめて水っぽくないのがいいですね。

村田:自分以外ということでいうと、最初に生駒さんの挙げられた〈煎餅のなぜか瓦を模して雪〉の句もそうですが、〈魚獲つて木彫りの熊となる誉〉の「形」に焦点を絞った感じが好きですね。
この句の「誉」があまり誉れっぽくないところもいいですし。句としては、少し面白すぎるかもしれませんが(笑)。

生駒:あと僕は、〈布団てふ羊水に身を沈めけり〉〈細胞の天より降り来雪うさぎ〉などは言葉の飛ばし方が面白いので、比喩ではなく取り合わせとして用いるなどの他の処理の仕方をすればもっと面白くなるのでは、と思いました。

村田:では、ひとまずこのへんで。

(続く)


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