2013-01-27

俳句の自然 子規への遡行11 橋本 直

俳句の自然 子規への遡行11


橋本 直     
初出『若竹』2011年12月号
(一部改変がある)
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引き続き、子規の病について追いたい。明治にはじまりを持つあらゆる事象を収集し博覧できる石井研堂『明治事物起源』の「病医部」には、「脳病」の記述はないが、「神経衰弱症の始め」と項目があって、
明治二十三年三月の『女学雑誌』二〇四号に、「近頃男女の書生にノイラステニー(神経衰弱症)患者が沢山ありますが主たる原因は、運動の不十分、過度の勉強、就眠時の遅刻等です」。(ちくま学芸文庫版による)
という短い記事がある。この記事一つにして明治二十年代の精神疾患への理解の度合いが知れるし、およそ「脳病」もこのような理解ではなかったかと想像される。しかし英文学者度会好一氏の『明治の精神異説』(岩波書店)によれば、「脳病」も「神経衰弱」も既に幕末に宇田川榛斎が著した『遠西医方名物考』にでてくるのだという。言葉が記号としては同じでも、その意味内容が同じとは限らないが、そもそもの出所は同書のようである。また度会氏は、明治に「神経病」が流行したと述べ、子規の他にも木戸孝允や北村透谷や樋口一葉ら明治の著名人達も「脳病」を気軽に使っていることを見出し、「脳がわるい」とか「脳病」という表現は「欧米よりも手軽に使われた」と指摘する(同書二十頁)。またその意味は、広く精神障害一般のことだったと言う。気軽に使えるということは、自分が「脳病」だと言うことが社会的にひどい蔑視や差別を招いたりするものでもなく、「発狂」(あるいはその手前)と同一視されるものでなく、社会的に広く認知された言葉だったということなのだろう。

明治二十四年一月、帝国大学の哲学科から国文科に転科した子規は、その「脳病」のため学年試験を放棄して木曾旅行に出、そのまま帰郷してしまう。しかも、その後の追試験には合格したものの、翌二十五年の試験で落第してしまい、漱石らの慰留もきかず結局退学した。子規自身はあとから、喀血後に脳が悪くなって試験が嫌になったとか、脳が悪くて試験に堪えられない、というような言い方をしているが、前回述べたとおり状況としてはストレス禍とでもいうようなものと理解される。だが先の度会の指摘に沿って言えば、要するにこの子規の物言いは、いまここで「ストレス」が担った意味内容と同じように、当時の文化の文脈に沿ったものだったのであり、言い換えれば、そういっておけば自分も世間も一応納得がいくような広義の便利な言葉であったのだろう。

子規は徳川親藩である松山藩の武家の嫡男であるから、明治維新における負けた側であり、高い立身出世の願望を叶えるには先達のコネ以外には自分の肉体と頭脳が唯一の頼りである。喀血した子規にとっては、大望をもって田舎を出て帝国大学に進みながら何もなしえないまま死病にとりつかれた状況であり、そこでもはや大出世など望むべくもないと落胆したのなら、学ぶ意欲が失われたとしても不思議ではない。しかし立場上そのレースから降りられない者にとって、精神の病と言ってしまえば降りる理由にできることは、ぎりぎりの救いにはなっただろう。

明治二十二年の最初の喀血後の子規は、安静にするどころか野球にのめり込むなど、逆に意地になって活発に動き回ったとみえる節があるが、自分の健康の可能性を見定めようとしたのかもしれないし、動けるうちにやりたいことをやろうと思っていたのかも知れない。いずれにせよ、その点は人として自然な感情と行動の成り行きと認められよう。脳病との連関は、あるともないとも言えないが、彼が異常の脳であった形跡は本人の記述以外に認められないように思われる。

さて、「寒山落木」中、仮名遣や「てにをは」の修正程度の重複句や末梢句を含め、子規が「病」を詠み込んだ句は一八八句見出せる。そこからこの喀血の時期の病を詠みこんだ句を拾うと、

  五月雨や神経病の直りぎは (明治二十二年・抹消句)

が見出せる。子規は抹消句にしているが、五月九日に最初の喀血があったので、季語からしてちょうど同じ頃の句作と思われる。ただし、誰が「神経病」であったかは問題で、このころ子規自身の通院の形跡やこの病の言及は未詳である。詠みぶりからすれば子規自身のことかもしれないし、この年の冬に神経病で入院している、いとこの藤野古白のことかもしれない。また、この句は子規の句にしては何を言いたかったのかが理解しづらい。いま巷間に「五月病」という言葉があるが、神経病の治り際の五月雨となれば、鬱々とした感じがあり、結局また病んでしまいそうな不安感が残る。子規の病に対する意識を考える時、その鏡としての藤野古白や清水則遠ら親類、友人の病も考えねばならないが、今はひとまずおく。

子規は後年「試験だから俳句をやめて準備にとりかゝらうと思ふと、俳句が頻りに浮んで来るので、試験があるといつでも俳句が沢山出来る」(『墨汁一滴』)と回顧したが、次に見出せる病の句は、その頃に詠んだものである。

  脳病の頭にひゞくせみの声(明治二十四年)

今度は「頭にひゞく」という実感を描写していることから子規自身のことを詠んだ句であることは明瞭である。病を句にするというだけなら芭蕉でも一茶でもやっていることだが、この句のように、精神の病と実感を露骨に句に詠むということは明治以降の新しい事象ということになる。しかし、これは先に述べたように「脳病」が割合気軽に使われ、そう書けば共感される文脈が少なくとも当時のインテリ層にはできていたからこそ場に出すことが可能な句であるだろう。先の五月雨の句を抹消句にした子規がこちらの句は残しているのも、その現れといえるだろう。

(つづく)

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