2013-01-27

〔超新撰21の一句〕日没に統べるモノ 質量を契る 清水かおりの一句 野口裕

〔超新撰21の一句〕
日没に統べるモノ 質量を契る
清水かおりの一句……野口 裕


川柳と俳句の違いは何かと考えるときに、テキストの分析から入るよりも、グループの違いと見た方が分かりやすい。川柳は被支配階級、俳句は支配階級が出自にあると見たときに見えてくるものがあるのだ。

  笑つて答えず旦那酌ぎましよう(西田當百)

  貧しさのあまりの果は笑ひ合ひ(吉川雉子郎)

  子を産まぬ約束で逢う雪しきり(森中恵美子)


  霜降れば霜を楯とす法の城(高浜虚子)

  銀杏散るまつただ中に法科あり(山口青邨)

  ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜(桂信子)

明治以降、身分の差はなくなったが、立身出世を果たそうとする人が交じるグループと、そうではないグループに属するかどうかは、作者の持つ語彙にまで影響する。第二次世界大戦後のごたごた以降、それが薄まってきたとはいえどもグループ内で培ってきたものは簡単に崩れない。

他方で、グループ内の差異ということがある。虹の七色のように微妙に色を変えつつ多数の作品がひしめき合っているのは、川柳・俳句ともに同様だろう。それを腑分けする際に、グループ内の嗜好にしたがって川柳では分かる・分からないが採用され、俳句では型に収まっているかどうかが採用される傾向にあった。その意味で作品の良否はさておき、両文芸における多数派は、俳句では有季定型、川柳では一読して分かりやすい川柳をめざすグループとなる。注意すべきは、分類のために用いられた基準がそのまま作品の良否を決定する基準に化けてしまうときの、読者の側に起こる退廃であろう。それは両グループともに常に起こりえる問題ではある。

前置きが長くなった。

清水かおりの一句だが、静謐を湛え読者をして沈思へと向かわせる。ミレーの「晩鐘」の傍らに置けば句の持つ雰囲気はそのまま理解されるだろう。

しかし、「モノ」、「質量」、「契る」という語の選び方がこれまでの川柳とは異なる。日常の景から感じ取った印象、従来の川柳であればありきたりの作品で終わりかねないそれを、そのまま作品として深化させようとして語が選ばれている。

巻末に添えられた堺谷真人の小論は前衛俳句との類似を述べる。なるほどと思うと同時に、どこか違うという印象もある。おそらくそれは、前衛俳句の多くの作者が持っていたぎらぎらした野心が、清水かおりの句には感じ取れないからだろう。日々の生活の感興を生活に流されずにつなぎ止めておこうとする姿勢は、やはり現代のものである。

  目を開けて金魚流れる夜半の雨  清水かおり


『超新撰21』・邑書林オンラインショップ

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