2013-01-20

【週刊俳句時評75】 闘われているらしい 上田信治 

【週刊俳句時評75】

闘われているらしい
 
上田信治




『角川俳句年鑑2013』今年もいちおう確認というつもりで読んで、やや驚きました。恒例の「年代別今年の収穫」という記事のうち、「四十代」(担当・櫂未知子)と、「三十代・二十代・十代」(同・岸本尚毅)のことです。



この「年代別」の記事、読んだことのない方のために説明すると、毎年だいたいフォーマットが決まっています。

「八十代以上」「七十代男性」「七十代女性」「六十代男性」「六十代女性」「五十代男性」「五十代女性」「四十代」「三十代・二十代・十代」、10歳区切りの年代別それぞれから30数人〜40数人の作家をピックアップ、1句から多くて5句くらいを引用して紹介します。

以前、ある「年鑑」から執筆依頼を受けた人が、数人と他の人で、引用句数に大きく差をつけた原稿を提出したところ、編集部から全面書き直しを要求されたそうです。

自分の好きな作家や知っている人がどう言われているかを読みたいということは、有力な購入動機でしょうし、作家総覧の意味のあるページなので、誰もがフリースタイルで書きはじめると、記事の趣意が変わってしまうということなのかもしれない。

作家の扱いに、若干の軽重はあっても、大きな差は付けない、並びも年齢順で、より年かさの人が前、というのが通例です。



岸本さん執筆の「三十代・二十代・十代」は、そういった慣例から、大きく踏み出しています。

年齢順ではありませんし、引用句の数も、かなり幅がある。言ってみれば、岸本さんの「注目度」がかなり、はっきり読み取れてしまう書き方になっている。

これは、ちょっとスリリングでした。

髙柳克弘4句 佐藤文香9句 山口優夢11句 相子智恵3句、からはじまって、大谷弘至4句 野口る理6句 村上鞆彦2句 阪西敦子5句 西村麒麟7句 日下野由季5句 冨田拓也1句 御中虫2句 凉野海音5句 小川楓子4句 小川春休1句 神野紗希3句 堀本裕樹3句 市川きつね6句 中本真人7句 江渡華子3句 藤田哲史2句………とつづきます。

句数については、そもそも発表の多寡もありますし、おもわず手が滑って引用しすぎた、とかもあるかもしれません。しかし、並びについては、あるていど以上、意識された結果に違いない。でなければ、まったくアトランダムになってしまいますから。

また、1行立てで引用する句の数に0~2の差があって、と、ここでも細かく、作家と作品に対する評価が表現されています。作家数は60人(多いです)。

この序列(とあえて言ってしまいますが)は、おそらく、若手作家に対する、期待、叱咤、激励、以外のものではない。

前の方にあげた人に対しても、後ろの方に下げた人に対してもきっとそうで、これは、今年だけの大サービスであったと言えるでしょう。来年はまた、違う人が書くんですから。

岸本さんが、若手作家に触れるメディアとして「週俳」をフル活用(20数名の作品を小誌より引用)してくださったことも、たいへんありがたかった。



さて。

櫂未知子さんの「四十代」に移ると、とりあげた作家は25人。同じ四十代が、2012年の40人(担当・伊藤伊那男)、2011年の52人(同・仲寒蝉)であったことに比べ少なめです。

あ、と思ったのは、関悦史さんと、高山れおなさんの名前がないこと。

誰が入ってなければいけないとうものではありませんが、ふつうに考えて、この年代を、あるいは俳句の現在を代表すると言っていい二人です。

関さんは、昨年、句集『六十億本の回転する曲がった棒』で田中裕明賞を受賞していますし、高山さんは句集こそ年末の刊行になったとはいえ、もともと「年鑑」の「諸家自選五句」のページに載る作家です(〈無能無害の僕らはみんな年鑑に れおな〉という句もあったな、そういえば)。

伊勢海老の頭部の歩く日本かな 関悦史 「俳句」2012年1月号
ブロック塀また崩れたり初夢に    「ガニメデ」2012年4月
きれよりもぐやくぎれだいじぜんゑいは 高山れおな 「角川俳句年鑑2013」諸家自選五句
じどうきじゆつのおとめちつくぞはづかしき      同

櫂さんの記事は他の執筆者に比べ、評文が長く引用句も多めなので、スペースの関係ではないと分かる。

記事最終ページの(さらに何人も作家を加えられたであろう)20行を費やして、櫂さんはこう書いています。

四十代の上には初老を含めた高齢者が大量におり、下にはインターネットの世界を無闇に信奉しているのではないかと思われる世代がいる。アナログしか信用しない世代と、直接話すよりはメールを送るほうが気楽だと考える世代の谷間にあって、今の四十代は何が出来るのだろう。
筆者が俳句を始めた頃は、個人の家にFAXがやっと普及した時期だった。FAXは、肉筆の味わいを送ってくれた点で、そこそこあたたかな機械だった。そしてワープロは原稿を書くのに便利だったが、ファイルを送るには厄介な手続きを要した。もちろん、ここで、今思えば石器時代に等しい頃に戻ろうと提唱したいのではない。洗練された詩形である俳句に幼さは要らない、自分より若い世代に迎合する必要もない——。そういった基本的なことを忘れている中堅層が多いことを危惧しているだけである。リアルタイムで返事や反響の来ないことが醸し出す大切な時間、あるいは静かに自分と向き合う時間。他者を通してしか実感できない自分ではなく、紛れもなく己の力で立っていることを実感できる人が、この世代に求められている。
(『角川俳句年鑑2013』p99「年代別収穫四十代・自分と向き合う時間」櫂未知子)

かなり文意が取りにくいのですが、

上の世代=FAX・ワープロ=自分と向き合う時間
下の世代=インターネット=他者を通してしか実感できない自分・幼さ

といった対比が提示され、櫂さんは、四十代に対して、どっちにつくんだ、と迫っているように見える。

作品についての好悪もあるのでしょうが、関さんはネット出身と言っていい存在ですし、高山さんは元「豈Weekly」。この二人のオミットは、俳句の「あるべき」姿へ向けての櫂さんの「闘争」の一環なのかもしれません。



さて。

いっぽう、月刊「俳句」では、同じく櫂未知子さんの「現代俳句時評」の連載が始まりました。

内館牧子の週刊誌エッセイを枕に、
極小の詩形である俳句に関わるものは、たとえ頑固すぎると言われようと「使いたい言葉」と「カネを積まれても使いたくない言葉」を峻別すべきだと切に思うのである。(「俳句」2013年1月号 p.203)
と結ばれる第1回で、俳句で使いたくない言葉として挙げられているのは、片仮名の四文字略語です。

椿象は来るはパソコンは鈍いは 大石悦子
パソコンにばかと言ふ人枇杷の花 押野裕
街路樹の芽へパソコンの起動音 西山ゆり子
十七音しかない俳句の制約を思えば「パーソナルコンピュータ」→「パソコン」という進化(?)もしくは短縮形は理解できる。筑紫磐井氏の著作によれば、日本人はおしなべて四音に縮めたがる民族だという。なるほどパソコンと言い、ある芸能人の名をキムタクと呼ぶわけだ。(同 p.201)
意外にも「パソコン」は、櫂さんOKらしい。主にやり玉に挙げられるのは、あの有名句です。

コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希
自選句の中に含めているぐらいだから、作者にとって愛着のある作品なのだろう。しかしながら、〈コンビニ〉という四音は、俳句という詩の言葉として成熟していない。ふだん用いる言葉としては、もちろん通用する——それがローソンだろうがセブンーイレブンだろうがファミリーマートだろうが。〈コンビニ〉の、しかも深夜の〈おでん〉だと聞けば、現代を生きる人々のほとんどがそれなりのイメージを心の中に描けるだろう。しかし、この現代的な省略語が、俳句という詩の中の言葉として存在し得るかと言えば、やはり無理なのではないか。(同 p.202)
今回、むやみと引用が長いのは、途中を(…)などを使って省略すると、その部分に何かだいじなことが書かれているように見えてしまうからです。段落まるごと、どう読んでみても、パソコンが是であり、コンビニが否であるという論拠は書かれていません。

個人的感覚で言ってよければ、自分としては「パソコン」のほうが使いにくい。NECとか富士通の時代の言葉で、そろそろ死語になりそうという匂いがするからです。そういう意味で上の3句は、語の間抜け感も含んでそれなりにOKなのですが(四音の略語というもの自体の間抜けさゆえに、その語が選ばれているとも見えます)。

いっぽう〈コンビニのおでんが好きで星きれい〉について、自分は、現代の口語俳句の収穫としてまず挙げられる佳句だと思います。

略語については、だってこれ「コンビニのおでん」は「コンビニのおでん」でしょう。「コンビニエンスストアのおでん」と言ってしまったら異和感の表明になってしまう。

そして〈星きれい〉という、まったく文章語ではありえない、超口語ともいうべきものをぶち込んで、中七と下五のあいだにえぐい「切れ」を作っている。切れは、口語俳句にとって一句一句、発明されていくべき課題ですから、この句はやはり収穫だと言える。ちょっと〈性格が八百屋お七でシクラメン 杞陽〉のパラフレーズのようでもあって興味深いです。

さて。

櫂さんがじっさいに反発し標的にしているのは、この人が『年鑑』の文章でも唐突に攻撃をしかける同じ「何か」、あるいは「奴ら」なんじゃないか、と思われる。
「大切にされるべき言葉を捨て、採用せずともよい新奇な言葉、未熟な言葉に媚を売っている人々が増えているのではないかと思われてならないのである」(同 p.198)。
前項の「幼さ」と「迎合」とにパラレルに対応して、この文中には「未熟さ」と「媚」という語が、否定すべきものとして提示されています。

未熟で幼い若い世代と、それに媚び迎合する上の世代、という図式が、櫂さんの頭の中にはあるようです。そして、そいつらは「インターネットを無闇と信奉」しているように見えるらしい。

コンビニ〉の句は、神野さんが、わざとのように作品に導入している「幼さ」が、むんむんしているような作でもあります。

カニ缶で蕪炊いて帰りを待つよ   神野紗希『光のまみれの蜂』
どこに隠そうクリスマスプレゼント 
夏は来ぬパジャマの柄の月と星
Tシャツが濡れて水着が透けている

これって、俵万智さんの線なんじゃないですかね。共感性とある種の女性性アピール(俵さんのその後を考えると、ほとんどセックスアピールと言っていいかもしれない)。そこには賛否両論、意外な風当たり、他いろいろあるわけですが、話がそれました。



櫂さんはいったい何と闘っているのか。相手が「インターネット」側と目される者たちであるとしたら、われわれは、何を闘われているのか。

櫂さんは、いわゆる「俳壇」のオピニオンリーダーの一人なのでしょう。自分としては、櫂さんの闘争を「こちら」側からウォッチすることで、いま「俳壇」側にいる人の「想い」が見えてくるだろうと思うので、今年はこの連載に注目することにします。

「こちら」側は、ご迷惑を掛けるつもりはないんですけどね。

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