俳句の自然 子規への遡行14
橋本 直
初出『若竹』2012年3月号
(一部改変がある)
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前回まで数回にわたり子規の病と病の俳句と病への意識のありようについて検討してきた。病もまた人間にとって自然であるゆえに。そこで見えてきたものは、子規の揺らぎである。いわゆる「和魂洋才」や「本音と建前」を、「和魂」=「本音」と、「洋才」=「建前」と見立てた場合、子規の自然観にはその両方が混在してあると言うことができるだろう。その軸としては「洋才」=「建前」、すなわち西洋由来の近代知に則って、俳句の革新をはじめ、短歌、写生文などの文学運動をしているけれども、その表現対象であり、かつ、自身の中にもある自然に対する感性は、時と場合によって「和魂」=「本音」の間で揺れ動くのである。
では、その揺らぎは、彼一人のものなのか、時代をうつす鏡だったのか。あるいは、時代を超えた問題なのか。また、その個と全の差異はどこまで探れるのだろうか。そこで、今回からしばらく、子規以外の人物、特に周辺の俳人達に焦点をあて、その自然観を追って比較してみたいと思う。まずは、子規の愛弟子である虚子の初期の言説から見ていきたい。
戯曲は人事詩界の覇王なり近者我國文壇其論戦日に喧しきものを見るもとより以て賀すべしと雖も、天然詩界亦叙景詩のあるあり彼と対立敢て遜色なきことを忘る可からず、况や叙景詩は西人の未だ指を染むる能はざるところ、東洋の新詩壇遠からず其國粹的文學の好果を懸けんこと吾人の切望に堪へざるところなり、聞説戯曲最能く人物の個性を主んずと何ぞこの風雨雷電山川草木禽獣蟲魚個々の特性を重んずる点と相似たるや、戯曲は没理想を以て人間を咏じ俳句は叙景によりて山川草木を歌はんとするものなり」(高濱虚子 明治28年10月24日「日本人」)戯曲を「人事界の覇王」であるというのは、もっとも人事を文学で表現することができるのが戯曲だということである。虚子は戯曲、韻文、小説でカテゴライズされていた西洋的近代文学の概念を素直に踏まえてものを言っている。同じ文の中で、虚子は戯曲と小説は叙情詩だとも述べており、今とは印象も概念も異なる。その戯曲や小説に対して、韻文としての俳句は、叙情も叙事もあるが、叙景ということが世界的に新しい(「東洋の新詩檀」)、というのが彼の主張であった。子規も俳句の特質たる叙景を盛んに論じているが、虚子の主張する叙景詩としての俳句とその自然とはどのようなものであったろうか。
凡そ俳人は深く同感して天然と融化す情に従て動き聲につれて形を為すもの悉く一草一葉の微妙に入るとせば誰れか我俳句の天然物に於ける造化の秘密を歌ふことの如何に精細にして幽遠なるに敬服せざらん(中略)哲学者生理学者が解剖する邊の秘密を総合的に歌う戯曲家小説家の如く理学者博物学者が驚嘆する靈妙の神靈に融化し其形を捕へ來つて詩魂をうつすものこれ我俳人のつとめとすべきところなるべし(引用同前)舶来の学理の意匠を着てはいるが、全体の印象として芭蕉の「風雅におけるもの、造化に随ひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。思ふ所月にあらずといふ事なし。像花にあらざる時は夷狄にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化に随ひ造化に帰れとなり。」(芭蕉「笈の小文」)に似た趣旨の文であると言えるだろう。虚子は、「俳人は深く同感して天然と融化す」と言う。「同感」とは思いを同じくすることであり、「融化」とはとけあうこと。つまり、俳人は天然自然と思いを同じくしてとけあうのだという。良く知られるように、後年に指導理念として「花鳥諷詠」を唱えることになるわけだが、すでに初期の頃からそれなりに自然との一体感を説こうとしている。しかし、自然と「同感」するという物言いには、前提として自然にも感じる思い(意志)がある、という認識でなければならない。あるいはそれを汎神論的「神」とか「宇宙の理」などというなら、それでも良いかもしれないが、既存の観念であって、虚子のオリジナルとはいえない。虚子がこの文を書いた翌年に子規が「虚子の草木を見るは猶有情の人間を見るがごとし」(正岡子規「文学」『日本人』第31号明治29年11月)と書いている。これは、虚子の句からだけではなく、先のような発言の傾向を受けてのことかもしれない。虚子の虚子たるものは、《自然の擬人化》を根本として一貫していると、とりあえず把握しておきたい。
さて、文中、戯曲小説家が人事を扱うゆえに哲学者生理学者とセットになるごとく、俳句は叙景詩ゆえに、おのずと自然科学の領域を専門とする理学者博物学者らとセットにされている。では、「靈妙の神靈に融化し其形を捕へ來つて詩魂をうつす」とはどういうことなのであろう。字義的に言い換えると、「人知でははかり知ることのできない造化の神にとけあってその形を自分なりに言葉でとらえてきて、詩情を表現する」というくらいの意味である。つまり、先の「深く同感して天然と融化す」ほぼ同じ事なのであるが、「天然」を「靈妙の神靈」と言ったところで、文飾的な用語とはいえスーパーネイチャーが「天然」に含まれていたことがわかる。
当時の自然科学が霊的なものまでも射程に入れていたことも考慮には入れないといけないが、ここでの虚子の自然観は、基本アニミスティックだといえるだろう。素朴な古代からの自然観を舶来の自然科学より上位に置いているように見えるのだ。さてそれは虚子の直観だったのだろうか。
(つづく)
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