2013-02-03

朝の爽波53 小川春休



小川春休





53



さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十八年」から。今回鑑賞した句は、昭和58年の夏の句。8月、中村草田男死去の報に接し、一晩じっくりと草田男句集に浸り、冥福を祈る、と年譜にありますが、句集にはこの時期の句に追悼句などは見当たりません。その代わり、毎日新聞の昭和58年8月27日版に「草田男氏深悼」という文章を寄せています。
 草田男氏の長逝を知った時、どういう訳かは知らぬが次の二句が口の端にのぼった。
  正午の露消え行進曲鳴り響き
  青稲の碧羅の空も茅舎以後
 句集『来し方行方』に収められた、昭和十六年七月、川端茅舎の長逝を悼む十句ほどの句の中の二句である。
 私の胸中にも突如として行進曲が暫くの間鳴り響き、やがて静かに消えて行った。
 茅舎の写真の顔も好きだが、草田男氏の顔は更にそれ以上に大好きで、更に懐かしい。
 四誌連合会の大会の折の写真など何枚かの写真があるが、私が一番好きなのは『現代俳句文学全集』(角川書店・昭和三十三年)の巻頭に掲げられた草田男氏の顔である。昭和三十三年といえば四誌連合会の大会が最初に催された年だから、草田男氏に関する思い出があれこれと一番沢山ある、まさにその頃の氏の顔である。
 俳人の写真といえば矢張り着物姿のものがいいが、この写真での着物は一目でそれと分かる普段着。洗い晒しで少しよれよれなところが如何にも草田男氏らしくて良い。
 この顔が、そして草田男氏の存在そのものが私には詩としての俳句を作り続ける勇気の源泉であったし、また励ましでもあった。
 四月の終わりに「俳句開眼の一書」と題して句集『銀河依然』の感銘について小文を記したが、そのことが今となってはせめてもの慰めである。果たしてそれが氏のお目に止まったかどうか。そんなことを考えるだけでも幾らかは私の悼みごころも薄れてゆくのである。
 草田男氏の訃を知ってすぐ、『長子』から始まって『火の鳥』『萬緑』『来し方行方』と、『銀河依然』までの五句集を膝を正して読み通した。
  向日葵に澄む即興の子を守る歌
  月夜なり買ひ来て下駄を眺むる妻
  すつくと狐すつくと狐日に並ぶ
  柱廊が影曳く子無き毛糸編み
  片蔭や夜が主題なる曲勁(つよ)し
  首まげて角まがる牛大年なり
  日盛りに出世有縁(うえん)の狆の顔
 広く人口に膾炙した句より、私が滋養分として吸収してきた句を挙げたが、これらはほんの一部分である。
 「俳の世界」とやらに関わる抹香臭さが一切ない、純粋で善意の人、包蔵するものの豊かさでは群を抜いていた草田男氏は既に亡い。

(波多野爽波「草田男氏深悼」)

竹皮を脱ぎたるやこれ大きかり  『骰子』(以下同)

「神戸句会十周年」と前書のある句。筍は伸びるにつれて、下の方の節から順に皮を脱いでいく。皮は物を包むのに用いたりする。竹が大きく育てば、皮も大きなものとなる。節目を迎えた句会の成果と竹の皮とを重ね合わせた、大らかな喜びの感じられる句だ。

煙草盆までとうすみの来ることも

「とうすみ」は灯心蜻蛉のこと。初夏の池や沼に生まれ、糸のように細い体で吹く風に弱々しく飛ぶ。煙草盆はあまり屋外には持ち出さないものだから、これは縁側での邂逅か。煙草盆の端に、翅を背中で合わせて止まる灯心蜻蛉のいじらしい姿をしばし見守る。

郭公に建付け悪(あ)しと思ひつつ

五月半ばに南方から飛来し、低山や平地の樹林に棲息する郭公。特徴的な鳴き声により、古来から日本人に愛され、芭蕉も〈憂きわれをさびしがらせよ閑古鳥〉の句を残している。掲句の侘びた家屋へのにべもない口ぶりは、わびさび趣味とは無縁の軽快さだ。

暗澹と母水遊びなほ続く

中七の「母」の後で切れ、水遊びをしているのはあくまで子供と読む。延々水遊びしている子供たちの楽しそうな様子と、蚊帳の外に置かれた母の暗い姿とが対比されている。強い日差しの中子供たちを見守り続ける母に、ありありと疲労の色が見える。

避暑に来て貧乏ゆすりしてをりぬ

炎暑を避けて、海岸や高原に滞在する避暑。日常の雑事を離れ、のびのびとした気分を満喫する。避暑地まで来て貧乏ゆすりとはと思う向きもあろうが、リラックスの仕方は人それぞれ。もしかすると、日頃貧乏ゆすりを注意する家族と離れての避暑かも知れない。

青花を摘む奇怪(きつくわい)な雲が湧き

青花は露草の一種オオボウシバナ。京都の友禅染の下絵に染料として用いられてきた。花摘みは猛暑・残暑の最も厳しい時期に毎朝毎朝続けられ、その作業の大変さから暗に地獄花とも呼ばれた。奇怪な雲が、過酷な作業に携わる人の心理を暗示する。

石敷の町の夜店の短かくて

「石敷の町」とは、大掴みだがその町並の雰囲気をよく伝える表現。寺社の縁日か、路傍に夜店が並ぶ。その様子を見ながら歩いてゆくが、夜店が少なくすぐに通り過ぎてしまう。これもまた慎ましい町の佇まいをよく伝える。言い流した句末が、豊かに余韻を残す。

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