2013-03-10

朝の爽波58 小川春休



小川春休





58



さて、今回は第三句集『骰子』の「昭和五十九年」から。今回鑑賞した句は、昭和五十九年の晩春から初夏にかけての句。年譜上、特にこれという記述のない期間。爽波、刀根夫、裕明の「青」編集新体制は順調に機能していたのでしょうか。

祝ぎの座へ都をどりを見て参ず  『骰子』(以下同)

都踊は京都・祇園の舞妓・芸妓が、毎年四月に祇園甲部歌舞練場で行う歌舞。一日の公演は四回、最も遅い回は午後四時五十分、公演は一時間程で終わる。都踊の華やいだ気分のまま、春の宵からの祝いの席に駆け付ける。いかにも京都に馴染みの爽波らしい句だ。

紫木蓮両の拳を膝の上に

三月後半から四月にかけ、葉に先がけて紅紫色の花を開く。花は六弁で、長さは一〇センチ前後と大ぶり。色の鮮やかさ、花の姿、思い切りの良い散り様など、凛としたものを感じる花だ。膝の上の拳にも同じく凛としたものを感じる。姿勢正しい男性の姿が目に浮かぶ。

武具飾り終へて鼻唄交りかな

五月五日は男子の節句、菖蒲の節句とも。菖蒲を尚武にかけて男子の成長や武運長久を祈願するようになった。掲句で武具を飾ったのは恐らく父親。子供の頃に自らが憧れ、仰ぎ見た鎧兜を自らの手で飾る、その充足感。思わず上機嫌で鼻唄も出てこようと言うもの。

幟鯉深くも垂れぬ松の中

滝をも登るとされる鯉を出世の象徴として、男子の成長を祈念したのが端午の節句の鯉幟の由来。「長く」ではなく「深く」であること、加えて独特な中七の言葉の運びが、林の中深く、松に囲まれて垂れる鯉幟の佇まいを現出させる。静寂とおごそかさとを感じる句。

壬生狂言買ひし花鉢足もとに

京都・壬生寺で四月二十一日から二十九日に行われる壬生念仏。その法要で鰐口・太鼓・笛に合わせて行う無言劇が壬生狂言。音響設備皆無の中世に大観衆に見せるため考案された様態だとか。足元の花鉢という意外な場所に目を止めた所が、春らしくもあり俳でもあり。

おしぼりをまだ手放さず柳絮とぶ

柳は早春、葉の出る前に黄緑色の目立たない花を開き、果実が熟すると、白い綿毛のついた雪のような絮を飛ばす。飲食店などでのおしぼりは、ある時期を境に温かいものと冷たいものが切り替わる。掲句は早春、おしぼりの熱にしばし指を温めたのだろうか。

開山堂水鶏叩くにまかせたり

開山堂とは、仏教寺院において開山、即ち当該寺院に最初に住した僧の像を祀った堂のこと。奈良・東大寺、京都・東福寺などが有名。水鶏の雄は繁殖期の夜に、キョッキョッと戸を叩くような声で鳴く。人とて見当たらぬ夜の開山堂に、水鶏の鋭い声が響き渡る。

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