2013-06-23

「露結」という衣装 山田露結句集『ホームスウィートホーム』を読む 関悦史

「露結」という衣装
山田露結句集『ホームスウィートホーム』を読む

関悦史

『銀化』2013年3月号より転載

世界は服である。山田露結句集『ホームスウィートホーム』はほとんど全てが、着ること、まとうことと身体との関係によって成り立っている。これは何も、いかにも呉服屋を生業とする作者らしく、詠まれるモチーフが衣服に偏っているという意味ではないし、さまざまな衣装を身にまとうことによる己の変化に、自己愛的に注意が集中しているという意味でもない。そこではむしろ、語り手自身を含めて、事物は皆なにごとかをまとうことによってのみ存在することができるという、極めて曖昧な変数としてあり、その茫漠たる頼りなさと、まといつく被膜のようなものたちとの間に組織される慕わしさとが表現の中心をなしている。そもそも俳人としての出発にあたり、祖父の俳号「露結」をそのまま継いだという作者の名自体が、衣装的に身に着けられるものの嚆矢である。着られるもの、まとわれるものとは、山田露結においては、まず家であり、家族なのだ。

  ぼんやりと妻子ある身や夏の月

  あるときは妻の昼寝を見てゐたる

  いつになく酔ひたる喪主のはだか踊り

家長というにはどうにもその自覚がおぼつかない一句目では「妻子」とは「夏の月」ともどもその「身」に添っていることをふと意識するという寛衣のような距離感から、その重みを再認識するものなのだし、二句目では、語り手の側が、眠る妻に対し、寛衣的な距離から視線を投げかける。そして、この距離が、何やら今一つ馴染み切れていない、不可思議で得心のいかないものとして、その存在を柔らかく引き受ける形で、情愛を表出することに寄与している。

三句目はどうか。ここでは「喪主」は、何も身にまとわないはだかになってしまっているではないか。しかし、ここでは、この「はだか踊り」こそが亡き家族を身にまとうための必須の所作なのだ。哀惜と追悼をもって故人を「着る」ためにこそ、ここでは「はだか」が選ばれたのである。方法論が矛盾をきたす瀬戸際において「喪主」の心情を伝えるあたり、露結句の一つの白眉といえる。

この方法は、一つの身体自体をも衣装的なズレにおいて捉えた《初蝶が蛹の中に詰めてある》《遅き日の亀をはみだす亀の首》《てのひらとなりきることも踊かな》や、己から剥落させたものが、脱ぎ捨てられた衣装のように別個の美へと転じてしまう《反故にして反故にしてみな牡丹に似》、衣装と身体との密接ぶりから、最終的に同一化しえない違和を抽出した《蛾は壁になりたし壁は蛾になりたし》《掛けてある妻のコートや妻のごとし》等々、至るところに現れるのだが、この原理は句集全体の構成にまで及んでいる。

各章の章題として差し挟まれた自由律句《長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」》《とうとう料理酒を飲んでる》等は、本文に対する衣装に他ならないし、その衣装の方が却って心情や状況をストレートに出しているという点で「はだか」になっている点も興味深い。「喪主」の「はだか踊り」と同じく、心情を句に直接呼び入れるためには「はだか」の身体の方こそが衣装的位置(この場合は章題)に退かなければならないという、句作上の生理をも明らかにしているのである。心情は、「はだか」との寛衣的な隔たりによって表されるのだ。

さらにこの寛衣的原理は、句集本体に対する付録「悲しい大蛇」というかたちにまで敷衍される。山田露結の語彙を用いた自動生成プログラムによる小句集とは、着る者のにおいが残った衣装に他ならない。そして脱ぎ捨てられた衣装の方が却って「牡丹に似」た美しいものになってしまうという逆説に、ここで作者は身をさらすことになる。

  愛撫を許せばまぶしいさくらがみんな見える

  こんな悲しい大蛇を少年と見ている

単なるお遊びと見過ごされてしまいかねない試みだが、こちらの方が面白いという読者が出てきてしまう可能性もないではない。そのとき作者は「ぼんやりと」「見て」いることによって、隔たりつつその重みを身にまとい直すことになるのだろう。寛衣的なズレと隔たりこそが、山田露結の俳句における《自己》なのである。

  かなしからずや殻の中まで蝸牛

  空蝉に貌あり安堵してをりぬ

  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり

  近づけば舟虫の群凹みけり

「蝸牛」はかなしい。殻も身も全部自己のみであり、寛衣的なズレという他者との愛情の回路を欠いているためである。「空蝉」は安堵する。脱ぎ捨てられた衣装となることにより、他者たる成虫との関係を全うしたからである。「たんぽぽ」は踏まれたい。それによって語り手を衣装にし、家族のような近しさに引き入れることができるからである。近づけば凹む舟虫の群が語り手と寛衣的な関係を組織していることはいうまでもない。この共感の回路は、当然突き放した写生を困難にする。だが一方《水の音させず椿の落ちにけり》《灰皿の中燃えてゐる暮春かな》《閂に蝶の湿りのありにけり》といった、黙っている物たちの情を慮った句は抑えがきいており、そうした体質ならではの達成なのだ。そして、ここでは方法も露出してはいない。

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