ふたつの遠く離れた現実
好井由江句集『風の斑』の一句
西原天気
『お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か』という本があった(1969年刊。2008年に文庫化されたが現在は絶版の模様)。反語的なタイトルで、「ただの現在」である点にこそテレビの可能性があるというのが骨子。
テレビという箱の中には人が入っているというのが草創期の戯言のひとつではあったが、(その頃幼児だった私が思うに)実感はなく、ブラウン管の奥がどこかに伸びて繋がっているというファンタジーのほうがしっくりくる。遠く離れた場所で起こっていることがテレビ画面に映っている。それは電波が飛んできて情報を伝えるというより、電波という洞窟が、どこかの現実とここ茶の間の現実を繋いでいるというイメージだった。
浅間山荘事件(《鉄球が山荘壊す修司の忌》澤田和弥『革命前夜』2013)、深夜のオリンピック競技中継、女子アナのニュース原稿の読み違え、湾岸戦争の空爆、アラブの春(これはむしろインターネットの即時性・繋がり感)、国会中継の罵声とうたた寝、『あまちゃん』が終わってすぐに発せらる有働アナのコメント等々、どこか遠くで起こっていることが、数メートルの至近距離で「起こっている」。それを見物するのがテレビを見るということだ。
天井に蜘蛛歓声はテレビから 好井由江
目は天井にいる蜘蛛に。耳にはどこかで沸き起こる歓声。蜘蛛と歓声、べつの場所のべつの現実が、この人のなかで同時に存在する。
「ここ」と「どこか」を扱うテレビの句には、例えば《ぐつたりと百合ありテレビより歓声 奥坂まや》がある。掲句は目と耳に受信をよりはっきりと分担させた点が眼目か。
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作者は1936年生まれ。「玄火」から「雷魚」まで小宅容義に師事。『風の斑(かぜのふ)』(2013年6月30日/ウェップ出版)は第3句集。
清新かつ柔軟。帯文のことば(小宅容義)を借りれば、好奇心の鋭さとそれを差配するバランス感覚。気持ちよくまた刺激的に拝読の時間を過ごした。以下、気ままに何句か。
まつさきに日の当る木やニ月来る
啓蟄や天眼鏡に飛びつく文字
初春の廊下と猫とミシンかな
礫なす蝙蝠十にとどまらず
おでん酒のれんの上を山手線
茶の花やぶつかり合つて雨と雨
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2013-07-21
ふたつの遠く離れた現実 好井由江句集『風の斑』の一句 西原天気
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