成分表59 鳴き声
上田信治
「里」2011年5月号より転載
電柱の横棒のところに止まっているカラスのようすが変だと思ったのと、だいたい同時に、その下の地面に、もう一羽のカラスの死体があると気づいた。
下のカラスは、車にぶつかりでもしたのだろう、どう見ても分かりやすく事切れている。
上のカラスは、ただならぬ様子というのか、あわただしく脚を踏み換えながら、聞いたことのないような声で「ああああああ、ああああああ」と鳴いていた。
カラスは、ここで今ひどいことが起こったということを、怒り訴え続けていた。比喩でも擬人法でもなく、どう見てもそうだった。「ひでええええよ、ひでええええええもん見ちまったよ!」
喜怒哀楽と一口に言うけれど、それらはまったく非対称的な感情で、「怒」と「哀」は深く長く実体的であるのに、「楽」は淡く、「喜」は「わーい」と飛び上がった時に生まれ、着地したらもう消えている。
そのことを発見した時は、人に生まれて損をしたような気持ちになったが、なにしろカラスも怒るくらいだから、感情の中で「怒」がたぶん最も起源が古い。
カラスが昼間、電柱のてっぺんなどで、誰に聞かせるともなくカーカー鳴いているのを見ると、カラスにも「喜」や「楽」があるように感じる。
それは、ただカラスらしく生きている、ということに根ざしたことに違いなく、それは人にもある感情だとすれば、いっしゅんの狂騒ではなく、心に波風のない状態をこそ「喜」や「楽」にカウントすべきなのかもしれない。だとすれば、喜怒哀楽は、きっとそれほど非対称的でもない。
ところで、ヨーロッパやイランの古典音楽の楽器奏法の伝授書には、例外なく、演奏家は人の歌唱を理想としてそれをまねぶように演奏しなさい、ということが書いてあるそうだ。
前回「一つの楽音は、過去の全ての音楽や祝祭にこめられた感情の記憶につながっている」と書いたけれど、そこに、過去の全ての鳥や犬の鳴き声も、加えたほうがいいのかもしれない。
人の「嗚呼」は、カラスの「ああ」とだいたい同じものなので、たぶん、そういうことだ。
乳房や ああ身をそらす 春の虹 富澤赤黄男
ああ不味きかもめ食堂扇風機 櫂未知子
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