因果の生々しい異形
斉田仁句集『異熟』
関悦史
『現代詩手帖』2013年6月号より転載
一読して意味の取りにくい句はほとんど見当たらず、それどころか俳諧味と懐かしさに満ちた句群が並んでいるにも関わらず、斉田仁句集『異熟』一巻はきわめて重厚な手応えを感じさせる。そしてその重厚さは五百句ほどにもなる収録句数の多さや、A5版の造本装幀からばかり生じるものではない。
黄金週間終わるブラシで鰐洗い
父の日の象をべたべた叩いている
万緑や寺格を誇る大薬缶
金魚から糞が離れてゆく薄暑
書名の『異熟』とは仏教用語「vipāka」の訳で、唯識思想において、過去世での行為の結果、異なる性質のものへとアーラヤ識が輪廻を遂げることを指すらしい。これらの句のブラシで洗われる鰐や、べたべた叩かれる象、大薬缶、金魚の糞などはそれぞれ「黄金週間」「父の日」「万緑」「薄暑」といったいかにも大まかに広がる季語とぶつけあわされる異形の物体であり、この生命感ある鈍重な事物たちが懐かしさと奇妙さの相のもとに一句に組織されることで、個人の記憶の領域が見事に普遍化を遂げる。余裕や諧謔が却って物件の実体感と引き立てあう作りが稀少で、その特質があるゆえに《黒南風を浴びて男が転向す》《生国を出でて十年平泳ぎ》といった世代や人生にじかに関わる題材も通俗化を免れているのである。
《仲見世を一本逸れてラムネ買う》の下町情緒、《冬の浪とんがってくるゴジラの忌》の往時への感応も生々しいし、《長き夜の鯨の胎にあるごとし》《鬼籍の兄まだ竹馬を貸し渋る》《なにか摑みなにか失い踊りの手》《幽閉のごとく雛を納めけり》も現前していないものの怪しさ、重さを引き出している。
この句集の懐かしさは、以前取り上げた『呼鈴』の小川軽舟とはまた異なり、個人的な幼少期の記憶の核に安置され、そこから現在を意義付け直すというだけにはとどまらない。過ぎ去ったものが醸し出す、己一個の無頼性などでは到底担保しきれない、この現前しないものたちの肉感性は何なのか。
ベンヤミンに「乞食がまだ存在するかぎりは、神話もまた依然として存在する」という異様に衝撃的な覚書きがある。現在から零れ落ちた乞食が、共同体の大本となる歴史以前の物語の存在を体現するものとして捉えられているのだ。斉田仁の句に現れる重く生々しい奇妙なものたちはこの乞食のヴァリエーションに他ならない。年表的整理の平明さや、あるいは一個人の追懐という枠の中でのアプローチでは捉えきれない付喪神じみた過去の有象無象たちを、あからさまな非現実としてではなく提示し、現前と過去との間に横たわる不透明な領域を俳句で捉えたものとして『異熟』は出色である。書名に偽りはなく、ここでは因果の法が抽象的な体系としではなく、様々に歪んだ来歴を照射してみせる力を持つ個物たちの手応えから呼び起こされる形で句にされているのである。
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