自由律俳句を読む 15 なかぎりせいじ 〔1〕
馬場古戸暢
なかぎりせいじ(1958-)は、自由律な会「ア・ぽろん」の主宰である。俳句結社に所属することなく、時折、インターネット上で自句を発表している。氏が自由律俳句を詠みはじめたのは、「『がきデカファイナル』のラストシーンに使われていた山頭火の『うしろすがたの しぐれてゆくか』」に衝撃を受けたことがきっかけだという。句に親しむ契機は、どこに転がっているのかわからない。
亡父ゆずりの猫背で歩く雲のした なかぎりせいじ
猫背になるのにも、遺伝的、あるいは家庭環境的な要因があるのだろうか。ともかく、自身の猫背に気付くたびに、亡父を思い出し続けるのだろう。
轢死のあった踏切を渡る夕暮れ 同
「轢死」とは、見た目からして壮絶な単語である。そんな轢死があった踏切とはいえど、作者にとっては日常の一部。いつもの通り、渡って帰宅するのみである。
母が日向を向いてかき餅を食う 同
せいじ句では、ご母堂を題材としたものが非常に多い。先にも紹介した「母が縮んで老婆」など、母の老いを静かに観察した佳句だと思う。掲句に対しては、散文的であるとの意見もありえるかもしれない。私は、この母を詠むにあたっては、そうした点もまた味を出していると感じている。
雪駄引きずって紫の花の前 同
作者は普段、雪駄をひきずって街中を歩いているのだろう。そうした闊歩の途中に、きれいな紫の花をみつけた。名前はわからないが、それは特に重要ではない。日々の暮らしの中で、紫の花と出会ったということのみで十分なのである。
散歩する老犬は斜めに歩いてる 同
足腰が弱っているために斜めに歩いているのか、それとも、たまたま斜めに歩いているのか。老犬の今後が気になる句。
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2013-10-13
自由律俳句を読む 15 なかぎりせいじ〔1〕 馬場古戸暢
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