俳句の自然 子規への遡行23
初出『若竹』2012年12月号
(一部改変がある)
(一部改変がある)
季語(季題)を知るということは、多くの俳人にとって基本的な態度であるが、一生のうちにどの季語を数多く(または少なく)詠むことになるかは、その俳人の作句姿勢や、生活環境や、自然に対する嗜好、時代・文化等が反映してくることになるであろう。まず題詠ありき、という詠み方であれば、特定の時期にきまった題の句が著しく増えることになり、実感に即して句作していれば、おかれた環境季節に沿って五感が捉えたものが増えてゆくだろう。いずれも、季節をテーマ、あるいはテーマの補助線として詠まれていくことは、子規の俳句革新以降もその主流である。そこで内容とともにその個々の違いをつきつめれば、俳句の自然の個人的側面が現れるであろうし、それを総合してゆけば、俳句の自然の社会的側面が現れてくることになるであろう。
では、例えば子規は、彼の生涯でどのような季語を数多く句によんでいるのだろう。類似句抹消句を含めるので大まかではあるが、『寒山落木』所収のものから拾ってみると、単独で三〇〇を超えている季語に「涼し」「時鳥」「時雨」がある。さらに、類題を含め三〇〇句を超えているものに「梅」「桜」「月」「雪」がある。これらの季語群は、他の季語とくらべて格別句数が多いということができる。
意外なことに、明治の俳諧を旧派月並として指弾し、新派として、俳句革新の先導者であった子規に、手垢のつきについたものと言っていい、伝統的な自然の美称であり、かつ風流の象徴的言葉である「雪月花」がもっとも多く詠まれていたわけである。これはどういうことを示すのであろう。
ちなみに、「梅」をあわせて「雪月梅花」とした題は、もっともはやく「雪月花」を詠んだ歌と言われる大伴家持の天平勝宝元年十二月に詠んだ『万葉集』所収歌の歌題である。
宴席詠雪月梅花歌一首
由吉能宇倍尓 天礼流都久欲尓 烏梅能播奈
乎理天於久良牟 波之伎故毛我母
宴席に雪月梅花を詠む歌一首
雪の上に 照れる月夜に 梅の花
折て贈らむ 愛しき子もがも (『国歌大観』による)
もっともこの時代の花は「梅」であるから、家持のこの題は「梅花」のみで一語なのであるが、平安以降「桜」が「梅」にとってかわったことを思えば、子規は連歌俳諧の時代からではなく、漢詩や『万葉集』以来の歌題であった「雪月花」を俳句において積極的に詠んでいった、ということも出来るのである。果たしてこれはただの偶然であっただろうか。
さて、子規が「時鳥(ほととぎす)」を最も多く詠んでいることは、その俳号ゆえに一見もっともなことだと思われる。が、この語も万葉以来の伝統をもっているのである。「子規」もその一つだが、「郭公」「不如帰」「杜宇」「田鵑」「蜀魂」など異字異名が多くあり、立夏に鳴くべき鳥とされ、暦や農耕と結びつくほか、橘や菖蒲と結びつけて歌に詠まれた。例えば『古今和歌集』詠み人知らずの「郭公なくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもするかな」は人口に膾炙した歌で、これを踏まえた芭蕉句に「ほととぎす鳴くや五尺の菖草」がある。さらに中国の故事と結びついて、血を吐くとか黄泉と往復するとされたので、喀血した子規が自らの俳号にしたことは以前にも触れた。また、山本健吉によれば、「古来、春の花、夏の時鳥、秋の月、冬の雪が、四季を代表する詠題とされた」(『基本季語五〇〇選』講談社学術文庫)という。
つまり、「雪月花」が冬秋春を象徴する語であるのに匹敵して「時鳥」は夏を代表するものとされ、『万葉集』以後も、勅撰集においても夏歌の巻にきわめて多く詠まれているのである。ということは、「雪月花」に「時鳥」を加えていることで、春夏秋冬それぞれを伝統的に代表する季語が揃って数多く詠まれていることになるのである。
子規が最も多く詠んでいた季語が、古来の四季それぞれを代表する歌語でもあることは、それを偶然というにはいささかできすぎた事実ではないだろうか。また、他の「涼し」や「時雨」も、すべて和歌以来の古い歴史をもつ季語なのである。さらに実証作業を必要とするであろうが、このように、伝統的な歌題でもある季語への子規の詠みの偏向は、古句の分類と同じく、俳句革新や、後の短歌革新への試行錯誤の一環であったと考えることができるのではないだろうか。
その他、ここまで紹介したものに次いで多く詠まれている季語には、二〇〇句を超えるものに、「暑」「秋風」「紅葉」「薄」「菊」「寒」があり、四捨五入して約二〇〇句になるものには「霞」「鶯」「柳」「五月雨」「夜寒」「露」「萩」「朝顔」「凩」「冬籠」がある。これらの語も、一見歳時記の分類的にはばらばらのように見えるかも知れないが、「冬籠」を除くほとんどが、いわゆる「竪題季語」であって、江戸以前から伝統的に季の詞として詠まれてきたものなのである。
こうしてみると、子規の作句数の偏向においては、それらの語が純粋にただ嗜好や生活実感に即して詠まれていった結果というより、古来よりの各季節の象徴たる一語を中心に据えて、それらを新しい明治の俳句として詠んでいくという目的意識をもって意図的に数多く作られていった中に、嗜好や実感、題詠などによる取捨選択が交っている、とみるほうが妥当なように思われる。
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