小川春休
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写生を説き写生を実行している私であるが、さりとて自然の只中に身を置き、「もの」に直面して写生に専念する機会、即ち吟行会のたぐいとなるが、そういう機会は昨今でもせいぜいひと月に二、三回というところである。
あとの句会の場合は当然のことながら季題から入って、あれこれと模索しながら何とかして奥へ奥へともぐり込んで、「もの」との良き出会いに恵まれんと必死になって作る訳である。
こういう作り方はと言えば、題で作っていて写生などとは全く関わりのない作り方だと人は言うかも知れない。
しかし私に言わせたら作り手として手順、実感、手応え、いずれの面から言っても全く写生そのものなのである。
この辺りの機微に細かく触れるとなると随分と多岐に亘って、とても一回や二回では書き切れないと思うから、一言に要約して言えば、如何にして確かな「臨場感」を獲得するかということになろうかと思う。
(中略)私にとっては吟行会であろうと普通の持ち寄りの句会であろうと、渾身の力を籠めてただただ写生をしているのだと人前でハッキリ言い切れるのである。
(波多野爽波「枚方から・臨場感」)
病篤しと竹馬の子の曰く 『一筆』(以下同)
その家の人の病状を、家の前の竹馬の子供に尋ねるが、子供の返答は「病篤し」と簡潔。ずっと屋内にいるのも気塞ぎだから、と家のすぐ前で竹馬に乗っているのかもしれないが、あまり楽しそうには感じられない。子供は子供なりに、病状を心配してもいるのだろう。
忌籠の家の竹馬見えてをり
忌籠りとは、葬儀などの際に一つの場所に籠って外部との接触を断つこと。先日「病篤し」と答えた竹馬の子も、さすがに今日は姿が見えない。塀の外からそれとなく様子を窺えば、立て掛けられた竹馬が見えるばかり。しーんと静まり返って、空気は寒々としている。
配膳の成りて椿を一と眺め
参会者が揃わない、または飲み物の手配が済んでいないなど、配膳が済んでいる状態でしばらく待たされることはままある。そうしたぽっかりと空いた時間を、椿を眺めるのに良しとする悠然たる態度が好ましい。さまざまな椿が美しく整えられた庭園も想像される。
地虫出て古毛氈は焼かれけり
春、啓蟄の頃ともなると、冬の間用いた防寒用の物は一旦用済みとなる。その中には、仕舞われる物もあれば、役目を終えて処分される物もある。冬眠から覚め、巣穴から出て来た虫が初めて目にしたのが燃え盛る古毛氈だったとは、何とも印象的な偶然の景だ。
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