2013-12-08

再説「俳句の文語」(前編) 完了の「し」はよくある間違いか?……大野秋田

 再説「俳句の文語」(前編) 
 完了の「し」はよくある間違いか?

大野秋田


私は『週刊俳句』237号に「助動詞『し』の完了の用法」(以下「A稿」)、283号に「文法外の文法」(以下「B稿」)、284号に「俳句の文語」以下「C稿」)を寄稿した。

A稿では、過去「き」の連体形「し」の完了の用法、B稿では、「こそ」の係りがないのに已然形で言い切る「已然形終止」、活用表にはない形容詞カリ活用の終止形「カリ終止」、助動詞「まじ」の未然形接続の来歴を述べ、これらに対する誤用説を批判した。

C稿では、教科書文法絶対化の弊害、擬似文語、歌人と俳人の文語観の相違、俳言、俳言に由来する俳句の用語の特性について述べた。


Ⅰ. 完了「し」再説

『俳句』平成25年9月号に「4週間でラクラク身につく! 文語文法入門」という特集が掲載された。特集中で、

「完了し」「已然形終止」「カリ終止」はすべて「よくある間違い」とされている。

『俳句』は、「文語文法基礎の基礎」という同様の特集を平成19年12月号でも組んでいる。詳しい説明は省くが、そこでは誤用とまではされていない。

「完了し」「已然形終止」「カリ終止」は、6年たったら誤用になってしまった。

私はC稿で、俳人の文法観において、 

古典文法の教科書の文法(=中古の文法)が絶対視され、中世以降に生まれた文法が排除される傾向が強まっている

ことを述べたが、その端的な実例である。

総合誌中最も有力な『俳句』に、誤用説が掲載された影響は大きいであろう。



「已然形終止」「カリ終止」についてはB稿に言うべきことは言った。ここに「完了し」を再説するのは、近年刊行された短歌の文法書の誤用説について意見を述べたいと思ったからである。

あわせて、「完了し」と「過去し」の違いが理解されていないこと、また「完了し」理解の上で、古代の「し」の意味が認識されるべきであることについて述べる。


短歌の文法書の「誤用」説

「完了し」(「たる」「る」の意味で使われた「し」。「完了」の意味については後述)を誤用と考える俳人が増えたのは、池田俊二が『日本語を知らない俳人たち』(平成17)で何十ページにもわたって用例を挙げて攻撃して以来と思われる。

池田は「完了し」の歴史を知らず、ただ古典文法の教科書だけを根拠に攻撃した。(池田は過去と完了の違いもわからなかった)その誤用説が流布し、今は俳人が誤用説を唱えるようになった。



池田が「完了し」について説くところは、池田が師と仰ぐ萩野貞樹の『旧かなを楽しむ』(平成15)の完全な受け売りである。萩野は現代短歌の「完了し」を批判したが、それを現代俳句に応用したのである。

萩野の本には、太田行蔵の『四斗樽』のことが出てくる。太田は歌誌『冬雷』に拠った歌人で、「完了し」の撲滅に情熱を燃やしたやかまし屋の老人であったことが宮地伸一『歌言葉雑記』に書かれている。『四斗樽』とは「し」と「たる」の意だが、萩野の「完了し」についての認識はこの本から得たのだと思われる。池田は俳人だけでなく、師と同様に歌人も攻撃した。萩野と池田の二冊の本の影響かどうかはわからないが、近年刊行された短歌の文法書にも誤用説が見られる。

藤井常世『短歌の〈文法〉』(平成22)は「『き』の連体形『し』」に6頁を割き、「濡れしまま学生服は」の「濡れしまま」が「けっこう落ちつく」など徹底しないところはあるものの、「完了し」の表現効果が劣ることを例を挙げて説明し、「『し』は『き』という過去を表す助動詞の連体形である、ということを心しておきたい」と述べている。

今野寿美『短歌のための文語文法入門』(平成24)は、「き」は「過去のある時点で起きたこと、それも自分が体験したことを回想するなかで用いるのが基本の助動詞である」として、「状態をいうのに過去の助動詞『き』はふさわしくないと肝に銘じておこう」と述べている。



しかし、藤井も今野も、過去ではない「し」を自分では使っている。

藤井「よぢれつつのぼる心のかたちかと見るまに消え一羽の雲雀」「濁り川次第に静まるときにして吹かるるごとく降り白鷺」「地を這ひて靄のぼりゆく明け方を生ればかりの子は覚めてゐる」「繋がれふたつの船のあひに鳴る水音さむし冬黒き河」(『紫苑幻野』昭和51)

今野「角ふたつ曲がればすでに迷ひゐるわれをここまで連れ来人よ」「一刹那時間とどめて打ちこめば振られ旗が目の端に見ゆ」(『若夏記』平成5)

これらの「し」は「たる」と同義であり、すべて完了の用法である。

「消えし」「降りし」「生れし」「連れ来し」「振られし」などは、今より前のことをいっているから過去と見えるかも知れないが、直前のことに過去「き(し・しか)」は使わない。

池田は「松田ひろむさんへの疑問」(『俳句界』平成19年11月号)で過去「し」について、「一秒前のことにでも『し』はフィットします」と言っているがありえないことである。池田の言葉は萩野の『旧かなと親しむ』(平成18)の受け売りだが、この誤解は存外広く存在するのではないか。 

(過去「き」がどれくらいの過去を表すかという研究を、後の「補足」に紹介した)


完了の用法とは

「完了の助動詞」は次のように定義される。 

「動作・作用が完結し、その状態が実現していることを表す助動詞」(『日本語文法がわかる事典』)「動作・作用の完了し、次にある何らかの状態が発現していることを表わす助動詞」(『日本文法大辞典』)「事態の発生、完了、完了した状態の存続、それらの確認などの意を表わす」(『日本国語大辞典』)

完了の意味に使われた「し」は、前掲「振られし」や芭蕉「衰や歯に喰あてし海苔の砂」のように単なる完了を表すこともあるが、きわめて多くの場合、何らかの状態(の存続)を表す。

今野「印され屋号を腹にゆすりつつ牛動くとき岡の広さよ」「以降禁句となり一語はきらきらときみとわれとのはざまを泳ぐ」(同)の「し」は完了で、「印され」た状態、「以降禁句とな」った状態が存続していることを示している。

今野は、状態をいうのにふさわしくない例として「春めきし庭」「母によく似し娘」「古びし帽子」を挙げている。「似し」には啄木「君に似姿を街に見る時の/こころ躍りを/あはれと思へ」、伊藤一彦「牛に似ほとけの顔におどろきて酒杯をこぼし粗相せる夢」(『海号の歌』平成7)のような例がある。



言文二途が進行した中世以降は、口語で考え文語で書くということが起こった。

口語で完了(た。…ている。…てある)の意の「た」と意識されたものを文語にするとき「たり」「り」が使われたのは当然だが「し」も使われるようになった。

安田純生は『歌ことば事情』に、「現代短歌の文語体は、口語を、作者が文語形と信じていることばに置き換えたものという傾向が強い。本質的には口語表現であって、それに文語の衣装を着せているともいえる」と述べている。

これは、近現代の短歌・俳句の文語が必然的に使わざるをえない擬似文語というものの本質を端的に言いあてた名言である。(前掲藤井、今野の歌から例を挙げれば「覚めてゐる」「迷ひゐる」の補助動詞の用法は擬似文語。「生れ」を「あれ」とよませるならそれも擬似文語)



中世に生まれた「完了し」は、もっとも早い擬似文語である。

啄木、伊藤の「似し」は「似た」を文語に置き換えたものだが、前掲の藤井、今野の8首の歌の「し」も同様に、すべて口語の完了「た」を「し」に置き換えたものである。

動詞には「似る」「古ぶ」など状態を表すものがあるが、それらと過去「き」は結びつかない。(口語でも、何か古びたものを見た経験を述べるとき、「古びていた」とは言っても「古びた」とは言わない)それで「完了し」を認めない人は、「似し」「古びし」に違和感を持つのだと思われる。


古代の「し」

『日本国語大辞典』の「き」は、古代において、「し」に過去の意味が生じる以前は「変化の結果の状態(口語の「…している」の意味)を表わした」とし、『古事記』の「浮き脂落ちなづさひ」(歌謡101)他の例を挙げる。

また山口佳紀『古代日本語文法の成立の研究』(昭和60)は、「古りに(おみな)してや」(万葉129)他の例を挙げ、

古代の「し」は「動作・作用が起こって、それが続いている、あるいは、その結果が残っている。リ・タリに近い」意味を持つことがあった 

と述べている。

「完了し」は、口語「た」を文語「し」に置き換えたものだが、もともとあった意味で使うのだから状態をいうのにふさわしくないとはいえない。



状態をいう「し」は、近現代の短歌・俳句に厖大にある。誰も無考えに使ってはいない。「たる」「る」や他の表現との得失を考慮して「し」を選択している。「し」が「たる」や「る」に劣るならこれほど使われることはなかったであろう。 

「し」の利点の一つは、音韻上の効果である。明るく強いラ行音のように響かず、静かに脇役として存在し、韻律を引き締める。子規「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」の「つまりし」を「つまれる」にかえてみれば、「し」の持つ力がよくわかる。


「完了し」「已然形終止」「カリ終止」の用例

誤用説によって「完了し」を使うことをやめた俳人は、数多くいたと思う。

一知半解の誤用説が流布し、歴史のある文法が否定され、教科書の文法のみに統制されようとしている。

ばかばかしいとしかいいようがない。 

「完了し」は、芭蕉も西鶴も近松も鷗外も漱石も荷風も芥川も使った。俳句・短歌という伝統の文芸に携わる者は、言葉がいかに使われてきたかという伝統も大切にしたいものである。




『俳句』2013年9月号の特集の「第4週」は、立子「鹿よせのはじめの鹿のやさしけれ」、綾子「元日の昼過ぎにうらさびしけれ」を挙げ、両句の「已然形終止」を「文法的には誤り」「文末が『やさし』『うらさびし』の已然形となる理由が見つかりません」と述べている。

「已然形終止」は、室町時代の和歌から生まれたが、理由もなく生まれ、理由もなく何百年も使われるわけがない。 

長い歴史を持ち、名句名歌を生んだ文法が、こういう浅薄な誤用説の流布によってこの時代に滅びるならあまりにも悲しい。




「完了し」の用例を掲げ、あわせて「已然形終止」「カリ終止」の用例も掲げる。それぞれに近代短歌の名歌を各三首添えた。

完了「し」
重頼「三方につみしをいかに西ざかな」(『犬子集』)
芭蕉「不精さやかき起されし春の雨」
蕪村「ぼたん切つて気のおとろひしゆふべかな」
一茶「くわんくわんと炭のおこりし夜明哉」
子規「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」
虚子「大空に又わき出でし小鳥かな」
蛇笏「暑中ただもろ乳垂りて母老いし」
石鼎「山の色釣り上げし鮎に動くかな」
風生「山を見る一つ加へし齢もて」
万太郎「くもることわすれし空のひばりかな」
たかし「とつぷりと後暮れゐし焚火かな」
秋桜子「コスモスを離れし蝶に谿深し」
素十「歩み来し人麦踏をはじめけり」
青畝「ひらひらとまぬがれし蛾の露の空」
草城「開かるる窓の光りし良夜かな」
誓子「枯れし苑磔刑の釘錆流す」
草田男「父となりしか蜥蜴とともに立ち止る」
不死男「子を殴ちしながき一瞬天の蝉」
立子「蓋あけし如く酷暑の来りけり」
楸邨「凍てし扉をひらき険しき目にあへり」
源二「地の涯に倖せありと来しが雪」
波郷「蚊を搏つて頬やはらかく癒えしかな」
真砂女「秋風や波の残せし波の泡」
登四郎「霜掃きし箒しばらくして倒る」
澄雄「子を抱いて出でしが枯野昏るゝばかり」
龍太「紺絣春月重く出でしかな」
爽波「本あけしほどのまぶしさ花八つ手」
狩行「夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪」
由美子「島を出し船にしばらく青嵐」
櫂「新涼やはらりと取れし本の帯」
道夫「借りて來し猫なり戀も附いて來し」
あまり「生国を忘れし母の息白し」
實「こがね打ちのべしからすみ炙るべし」
尚毅「なきがらの四方刈田となつてゐし」
郷子「思ふことかがやいてきし小鳥かな」
郁良「部屋いつぱい広げし海図小鳥来る」

子規「瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり」
啄木「赤紙の表紙手擦れし/国禁の/書を行李の底にさがす日」
迢空「葛の花 踏みしだかれて、 色あたらし この山道を行きし人あり」

已然形終止
芭蕉「酒飲めばいとゞ寝られね夜の雪」
蕪村「大文字や近江の空もたゞならね」
嘯山「秋の暮毎日あつて淋しけれ」(『其雪影』)
柳女「春なれて二日の門も楽しけれ」(『続明烏』)
鬼城「鵜飼の火川底見えて淋しけれ」
子規「子を負ふて孀と見ゆれ納豆売」(明治34)
虚子「蜘蛛掃けば太鼓落して悲しけれ」「人と蝶美しく又はかなけれ」「咲き満ちてこれより椿汚なけれ」
琅琅「間の年柿なき秋の淋しけれ」(『続春夏秋冬』)
石鼎「元日の空青々と淋しけれ」
みどり女「花の雨といへどなかなかはげしけれ」
耒井「吸へど出ぬ乳よ子が夜も長からめ」
秋桜子「鮠釣に水草生ひ出で光りたれ」「浪騒ぐ礁の見ゆれ夜光虫」
素十「草じらみつけて女はたのしけれ」
多佳子「息あらき雄鹿が立つは切なけれ」
青畝「崩梁ならめひょろひょろひょろひょろと」
貞「冱え返るその日の土筆かなしけれ」
白虹「ラガー等のそのかちうたのみじかけれ」
鷹女「莟より花の桔梗はさびしけれ」
耕衣「捕らへんとすれば其の蝶醜くけれ」
誓子「猪吊るす生きてゐし牙きたなけれ」
草田男「馬息吹く無為の蹄の冷ゆるらめ」
閒石「疵ありて小春の玉の愛しけれ」
立子「夜半さめてこの静けさや雪ならめ」
楸邨「黍刈を苦しといはね頬の日焼」
静塔「青ざくろ万病医者に明るけれ」
秀野「青嵐いづこに棲むもひもじけれ」
風三楼「入坑の頬被りして幼けれ」
波郷「はたはたも靴の埃もたのしけれ」
苑子「黄泉に来てまだ髪梳くは寂しけれ」
夕爾「むきむきにつくし摘みゐてさみしけれ」
信子「母ねむり無月の空のあかるけれ」
源義「海光や白き浴衣は妻ならめ」
鬼房「陰に生る麦尊けれ青山河」
兜太「花粉まみれの蜜蜂とび交いひもじけれ」
欣一「柿実る幹黒き辺にまた逢はめ」
敏雄「大和名のいらくさのあを尊けれ」
敏郎「阿尾ノ岬舳の如く涼しけれ」
郁乎「流行はどうでもよけれ古すだれ」
美秋「まだ動く探海燈はさびしけれ」
浩司「枯蓮は日霊(ひる)のごとくに明るけれ」
睦郎「海に出て後の雨月ぞ只ならね」
杏子「肉炙るなどかなしけれ昼の虫」
あまり「野村万蔵蹴つて袴の涼しけれ」
ゆう子「身を捩じて杉の飛ばしし花粉なれ」
番矢「いのちひしめく雲のやちまた涼しけれ」
龍「鯛よりも明るき顔よ瓦斯濃けれ」
裕明「みづうみのみなとのなつのみじかけれ」
悦史「智反吐に混じり女の素足さびしけれ」
十二国「川音はからだによけれ赤とんぼ」

牧水「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」
茂吉「めん雞ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり」
赤彦「信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜の色は」

カリ終止
漱石「立枯の唐黍鳴つて物憂かり」(明治31)「文債に籠る冬の日短かゝり」(明治40)
子規「釜こげる柚子の上味噌つめたかり」(明治32)「家越シテ椿ノ蕾ウレシカリ」(『仰臥漫録』)
珠郎「蓮植うる僧の鉢巻をかしかり」(『俳諧新潮』)
四方太「置炬燵夜風障子につめたかり」(『春夏秋冬』)
井村「筆始書家の子の書に拙かり」(同)
把栗「年内に鴬啼いてめでたかり」(同)
柚翁「立秋や米も白かり水も澄む」(『続春夏秋冬』)
虚子「風多き小諸の春は住み憂かり」「今日寒し昨日暑しと住み憂かり」「春の山屍をうめて空しかり」
山頭火「たまさかに飲む酒の音さびしかり」
秋桜子「ぬるるもの冬田に無かり雨きたる」
鷹女「ひるがほに昼まぼろしのいや濃かり」
汀女「緑陰を出て挙手の礼きびしかり」「菊苗を盗む心も久しかり」
春一「菊白しわが酌む酒も色無かり」
一都「山小屋の椅子の曝れしが涼しかり」
菟絲子「幟立ち人声庭に久しかり」
桂郎「卒業歌泣かぬ子多したのもしかり」
登四郎「露に駈け亡き児は今も幼なかり」
波郷「喜劇みし汗を拭きつつ言無かり」
夫佐恵「流燈の手を離るとき親しかり」
朱鳥「手にふれし汗の乳房は冷たかり」
比奈夫「枇杷葉湯昔は暑気のやさしかり」
亨「流燈の迅速なるは悲しかり」
敏雄「箸置や危かり憲法第九條」
飴山實「青き林檎青く画きつつ哀しかり」
道夫「霜くすべ夕餉了へても明るかり」
小澤實「某月某日濹東秋日しふねかり」
うさぎ「胡瓜揉み庭にあめかぜ激しかり」
久子「朝日さす土筆のあたまつめたかり」
猿丸「真上よりみる噴水のさみしかり」
智哉「綿虫のとほりし跡のあかるかり」
晃「山に星バターナイフの涼しかり」
文香「焼鳥の我は我はと淋しかり」

啄木「かにかくに渋民村は恋しかり/おもひでの山/おもひでの川」
晶子「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」
茂吉「ここに来て狐を見るは楽しかり狐の香こそ日本古代の香」

(出典は『子規全集』第三巻『漱石全集』第十七巻『増補現代俳句大系』『集成・昭和の俳句』『現代俳句集成』『新撰21』『超新撰21』『俳コレ』他)


補足

中世において「し」に完了の用法が生じた理由

「変化の結果の状態」をあらわし、「リ・タリに近い」意味を持ったとされる古代の「し」は、中古以降の和歌にも「古りにし」の形で生きた化石のようにして残っていた。

 僧正遍昭「里は荒れて人は古りにし宿なれば庭も籬も秋の野らなる」(古今・248)伊勢「君見よと尋ねて折れる山桜古りにし色と思はざらなん」(後撰・115)大江千里「不見洛陽花/神さびて古りにし人を尋ぬれば荒れたる宿にすみれつみけり」(千里集・5)藤原為家「老ののちみかさの山の坂越えてふりにし松のあとを見るかな」(夫木和歌抄・9232)

生き残っていたこの「し」の用途が中世において広がり、口語の完了「た」に対応する文語として使用されるようになったという可能性はある。


過去「き」はどれくらいの過去を表すか

過去「き(し・しか)」がどれくらいの過去を表すのかという研究があるので紹介する。

鈴木泰「古文における六つの時の助動詞」(『国文法講座 2』・明治書院)の中に『源氏物語』の桐壺から藤裏葉まで(全体のほぼ半分)の会話文(和歌・心中詞を含む)を対象にした調査がある。

それによると、直前1、昨夜3、昨日4、先日9、数ヶ月前10、去年8、先年15、若い頃12、二十年前4、子供の頃7、以前11、計84である。(「先日」は2日前から一ヶ月位前、「先年」は2年前から10年位前、「以前」は日単位とも年単位ともわからないもの)

直前1は「松風」の光源氏「契りにかはらぬ琴のしらべにて絶えぬ心のほどは知りきや」という歌だが、「異例」であり、「今しばらく個別的に考えてみる必要があろう」としている。日本古典文学大系、新日本古典文学大系、日本古典文学全集、新潮古典集成の『源氏物語』は、すべてこの「き」を直前のこととは解していない。明石の上の返歌「変はらじと契りしことを頼みにて松のひゞきに音をそへしかな」が直前の思いとして答えてはいないのだから、直前説は成り立たない。日本古典文学大系、山岸徳平の、「知りきや」は「知りぬや」と違うとする注と歌の解釈が、直前でないことを明快に説明している。


過去より完了が多い「し」

「し」が過去を表すか完了を表すかは、文脈で判断するしかない。いずれとも判別のつかないケースもある。

眼前の物や事柄を詠むことの多い俳句では、圧倒的に完了の方が多い。

たとえば子規の明治32年から35年の句は全集第三巻に2480句あるが、「し」は131句にあり、うち完了は120句、過去は「藤を見に行ききのふの疲れ哉」等8句、判別できないものが「こほろきや犬を埋め庭の隅」等3句である。

尾崎紅葉編『俳諧新潮』(明治36年・1305句)に「し」は104句にあるが、私には句意不明の霞山「雪解や命拾ひし旅かたり」以外はすべて完了である。

しばしば時間の経過を詠む短歌でも、過去よりは完了の方が多い。

近藤芳美『埃吹く街』(昭和22)は、「主義に拠り唯一度だにあらずして守り得小さき生活よ之は」のように過去と完了が両方ある歌が2首あるが、それを外して完了64首、過去18首である。

木俣修『冬暦』(昭和23)は「子を二人戦死せしめ村長も追放すべき時とやなり」を外して完了26首、過去31首、不明1首である。過去が多いのは、戦中を回想した歌が多いためである。なお、米口實『現代短歌の文法』には、修が晩年、「完了し」を誤用として門下を厳しく指導したことが書かれているが、『木俣修全歌集』を見ると、最晩年に至るまで「完了し」がある。

河野裕子『桜森』(昭和56)は、「つゆ結ぶまで冷え切りこの額にさやかに打ち若き血思ふ」を外して完了55首、過去24首。

小島ゆかり『憂春』(平成17)は完了27首、過去15首。

近代の教科書中の「完了し」

A稿に挙げた「完了し」の近代の用例の多くは文学関係のものだが、教科書類にもしばしば見られる。

「赤く熟せ葡萄の」(明治6『通俗伊蘇普物語』巻之一)。「今画キ三角形ハ等シキ辺アルヤ」(明治6『上等小学課書 幾何初歩』巻二)。「帰宅せ時は必らず父母へ、…若し馬車等に出逢ひ時は」(明治12『神奈川県 小学生徒心得』)。「此の石をば手に入れゆゑ、…私の精神のこもりもの」(明治33『国語読本』高等小学校用巻一「応挙と谷風」)。「小屋根に上げ看板が…腹のふくれ布袋和尚」(大正7『尋常小学国語読本』巻九「石安工場」)。(すべて『日本教科書大系』)


形容詞已然形「かれ」と完了の「しか」

『俳句』9月号の特集の「第2週」で、龍太「燭寒し身も世も愛の濃かれども」を「濃けれ」の誤りとしているが、已然形「かれ」は茂吉「雪の中に日の落つる見ゆほのぼのと懺悔の心かなしかれども」のように近代短歌でよく使われた。

これも「カリ終止」と同じく補助活用が本活用化したものである。

安田純生『現代短歌用語考』は、已然形「かれ」は江戸時代の文章や和歌に散見すると述べ、西鶴、真淵などの用例を引く。また現代短歌ではよく出てくると述べ、「けれど」「けれども」というと口語を連想するため、いっそう文語らしい印象のある「かれど」「かれども」を使うのであろうとしている。

龍太は龍太の考えがあって「かれども」を選んだのである。

なお、「第2週」で、不器男の「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」の「あなた」を形容動詞としているが代名詞である。同様のミスは「第4週」にもあり、接続助詞「が・に・を」を終止形接続としているが連体形接続である。

「第3週」で、助動詞「き」の説明に「完全に現在から切り離された過去」を表すとしながら、用例に不器男「白藤や揺りやみしかばうすみどり」を挙げている。この「しか」は完了の用法である。

『万葉集』にあり、近代短歌でも茂吉「ひかりさす松山のべを越えしかば苔より出づる水を飲むなり」のようにしばしば使われた。


国語学者が中世以降の文語の文法を研究しない理由

国語学者による中世以降の文語文法の研究はきわめて乏しい。その理由を時枝誠記は『日本文法 文語編』(岩波全書・昭和29)に概略次のように述べる。

文語文法の骨格は江戸時代の国学者によって作られたが、近世国学の理念から、研究対象の文献は奈良平安時代のものに限られた。近代の国語学は、口語あるいは音声言語を真の言語とするヨーロッパの言語学の影響を受け、中世近世近代の口語の研究を専らにした。こうして中世以降の文語の研究は空白のまま放任された、と。

時枝は「中世以降の文語は、中古の伝統を継承していると云つても、それは決して、中古の法則をそのまま継承してゐるのではなく、独自の変遷を経過して来てゐると考へられるのである。中世以後の文語がどのやうに変遷して来たか、またそれはどのやうな性格の言語であつたかといふやうな問題は、恐らく今後に残された重要な課題であらう」と述べたが、その後も研究は活発ではない。

単行本となっている研究は、私の知る限りで、根来司『中世文語の研究』、山口明穂『中世国語における文語の研究』の二冊である。

文法講座や論文集などの本の中に「徒然草の文法」「芭蕉の文法」など中世近世の文法に関する論文を見ることはある。しかし、これらの著書や論文が短歌・俳句で使用される中世以降の文語の問題を特に取り上げているわけではない。

国語学者が関心を持たないその問題に取り組んだのは、A稿C稿に記したように歌人の宮地伸一と安田純生であった。

次号(後編)「文語俳句にまじる口語」に続く。
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_15.html

1 コメント:

Unknown さんのコメント...

短歌の入門者です。
「し」を完了の助動詞として使用していましたが、「今野寿美氏」短歌のための文語文法入門を教科書としてみると、「し」は過去の助動詞「き」の連体形しかありませんでした。できれば、完了の助動詞「し」があれば、自分としてはすわりが良いので、使用したかったのですが、他の表現に変えました。しかし、疑問は残り、様々なネット情報を調べ、やっと、本頁に遭遇し、自分の疑問が氷解いたしました。今後は、自信をもって、完了助動詞「し」を使いたいと思います。ありがとうございました。
-kingface-