2014-01-26

BLな俳句 第1回 関悦史

BLな俳句 第1回

関悦史


『ふらんす堂通信』第136号(2013年4月)より転載

※「BL」はボーイズラブ(和製英語)の略。「日本における男性の同性愛を題材とした小説や漫画などのジャンルのこと。」(wikipedia)


怒らぬから青野でしめる友の首  島津亮『記録』

俳句に詠まれた同性愛的感情を取り上げるならば、第一に指を屈さなければならないのが、この句でしょう。

語り手は明らかに度を越した感情を友に抱いているにもかかわらず、友は怒ってくれない。つまり、対等に受け止めてくれず、憐れみと諦念をもっていなされてしまう。

「怒らぬから~しめる」という因果関係が、単純な憎悪や敵意ではなく、自分と同じ地平にはもはやいない、いつしか遠ざかってしまっていることに気がついた友への、暴力に至るほどの痛惜を示しています。

「青野」は夏の季語。両者の若々しさをいやが上にも暗示しますが、それだけではありません。この語があるから、二人は正面から向かい合って立っているのではなく、語り手が友を組み伏せているのだとのイメージが強まるのです。

草いきれに包まれつつの激情と密着。それは深い交歓の図以外の何ものでもありません。


少年の死神が待つ牡丹かな  永田耕衣『自人』

この世のものならぬ、生死の境を踏み越えつつの出会いです。

「死神」に限らず、属性で人を表すとどうしても成人男性をイメージしてしまうのですが、それが少年というのがまず意表をついています。

牡丹は夏の季語で、「花王」「百花の王」といった別名も持ち、艶やかな大輪の花を咲かせます。

「死神」は日常に根差した現実味は全くない言葉ですし、それが「少年」となるといささか線が細い句にもなりかねませんが、それを一挙に逆転しているのが下五の「牡丹かな」です。

牡丹の重厚な存在感と鮮やかさが、うら若くも恐ろしい権能を秘めた少年神を荘厳し、そして「かな」が非日常の景を盤石の安定感で受け止め、句として成り立たせているのです。

難しい単語は一つもなく、五七五ぴったりになだらかに収めながらこうした異界を苦もなく現出させてしまうのは、耕衣ならではでしょう。

「待つ」が逢瀬への期待を伺わせ、句に恋の風情を添えます。

少年の死神との逢瀬に至ったとき、語り手自身も肉体的年齢を脱落させ、清々しくも妖しい美的全体の中に参入することになるのです。


薄氷や我を出で入る美少年  永田耕衣『殺佛』

「薄氷」は春の季語。水が、固体と液体の境目で持ちこたえつつ、次第に液体に近づいている姿といえます。

「我を出で入る美少年」が世の常の存在ではありませんが、この「我」にしても元から自分が出入り可能な存在と知っていたかどうかはわかりません。出入り可能な存在となった「我」を象徴するかのように置かれたのが、「薄氷」という季語なのです。

そもそも、この「美少年」と「我」との関係はいかなるものなのでしょう。

一見他者同士とも見えますが、身の内を透過しあう関係となれば、もはや判然とはしません。

「美少年」とは死後の「我」であり、「我」とは今日ただいま生身として姿を現している「美少年」であるといった表裏一体、不即不離の関係なのかもしれません。

生死の境を無化してしまったような句ですが、それが悟りすました姿としてではなく、存在-非在の別をやすやすと超えた、全霊を用いつつも、気軽に繰り返される交歓というエロスの相において描かれるところに、耕衣の面目躍如たるものがあります。


かたつむりつるめば肉の食ひ入るや  永田耕衣『驢鳴集』

この句、かたつむりの生々しい性交に見入ることで、読者までその中に引き込んでしまうような不穏さが充ち満ちていて、あるキリスト教徒からは「涜神的」とすら言われたことがあるそうです。

ところでこれは一体、どの辺りがBL的なのか。

じつはカタツムリには雌雄同体という特徴があるのです。自家受精すら一応は出来るようですが、別の個体とつるみあっての生殖が主。生殖の際は、どの個体も雄雌どちらの役割も果たせます。

よってこの句は、厳密には男性同士の同性愛ではなく、両性具有者同士の性交の図となります。言葉を変えれば、カタツムリには同性愛しかないともいえるのかもしれません。

生き物の単なる写生ともいうべき内容でありながら、ヒトとは別な生理で絡み合い、柔らかく、未来永劫食い入りあっていくような、もはや生産的とも不毛ともつかない妖しい領域を、この句は切り開いてみせています。

もともと生物としての次元が違いすぎる上に、性差・性別もないのに生殖できてしまうあたり、やや感情移入の対象にはしにくいかもしれませんが、興味がおありの方は、頭の中で擬人化し、存分に玩弄してみてください。


ひるすぎの美童を誘ふかたつむり  柿本多映『花石』

「ひるすぎ」の白い明るさが、この世の外の時間のような風情。かたつむりが美童を誘うとなれば猶更です。

いや、かたつむりとしては別に誘うつもりはないのかもしれません。

庭先にかたつむりが見え、勝手に興味を示した子供が出てきたというだけのこととも取れそうではあります。

ですが、ここで注意しなければならないのは「美童」という言葉です。

単なる「少年」でも「男の子」でもない。

美しいということがその最大の属性となっている男の子であり、これは内面を持った人間というよりは、人間と人形の中間とでもいった印象の言葉です。

面だけではなく、加齢や成長といった要素とも少々結びつきにくい。

いわば、あらかじめ永遠性をその体内に持ち、半ば抽象化した中性的エロスを帯びた存在です。

螺旋の貝殻と軟体の身が、それぞれ宇宙生成の原理と生命感自体とを同時に具体化にしたかのような姿のかたつむり、そして美童、「ひるすぎ」。これらはそもそもいずれも日常の時空からははみ出しているのです。

この無何有郷が実体感を欠いたものに終わっていないのは、誘い込むかたつむり(夏の季語です)の、生々しい肉体の粘性ゆえでしょう。

美童とかたつむりとの黙契じみた交歓が、他界的な幸福感を呼び覚ます句です。


美少年かくまふ村の夾竹桃  柿本多映『蝶日』

平家の落武者でもかくまっているような、現代離れした作です。

ただし史実への忠実さなどよりは、美的な趣向を土台としている風情。

夾竹桃は、竹に似た葉と、桃に似た鮮やかな花とを持つことからその和名がついた植物で、季節は夏です。

「美少年」は「美童」に比べると遥かに生身の人間らしい存在ですが、それでもまず見た目の良さが最大の属性。夾竹桃と反映しあって、健やかで華やかな少年像が浮かび上がり、それが句全体のトーンも決めています。

ただし、不穏な気配をはらむのが「かくまふ」という言葉。

何か強大な敵から逃げていることがうかがわれ、もし見つかったら村ともどもどういう目に遭わされるかわかりません。

惨劇と破壊の予感を帯びて、少年と夾竹桃の美しさもやや鋭さを増しますが、一方でこの妙に村人の姿が希薄な「村」は、これも一つのユートピアとも見え、いつまでも発見されることはないだろうとも予感させます。「夾竹桃」の「桃」が「桃源郷」への連想を助けるためもあるのでしょう。

落花狼藉の無惨美のさまを見てみたいような気もそそられつつ、いつまでも穏やかな快感の中に留め置かれるような句です。


抱かねば水仙の揺れやまざるよ  岡本眸『十指』

水仙の学名「Narcissus」は、ギリシャ神話の美少年ナルキッソスに由来します。

多くの相手からの求愛をはねつけ、怨みを買ったナルキッソスは、その怨みを聞き入れた復讐の女神ネメシスによって、水鏡に映った自分に恋することになり、不毛の恋情のために水辺に釘づけとなったまま死んで、水仙に変身します。

句集『十指』の中では「下田行」という、ごく散文的な前書きのついた嘱目の句として置かれていますが、「抱かねば」という踏み込みは、そうした伝承を連想させるに充分です。「揺れやまざる」も、不毛の恋に留め置かれたナルシスの心情と響きあいます。

しかし抱き入れようとしたところで、驕慢な、しかも自分にだけ恋しているナルシスは、その手を受け入れるのでしょうか。

目の前にありながら、手が届かないという、美しいものを前にしたときのもどかしさをも感じさせる句で、水仙への憧れを示す結句「よ」の呼びかけは、永遠に宙に漂うことになります。


受胎とげしはレオナルド・ダ・ヴィンチか  宗田安正『百塔』

レオナルドに同性愛的傾向があったらしいことはよく知られていますが、これは単に性的嗜好の問題というより、創造する者にとって、両性具有性(あるいはむしろ、男性にも女性にも、それ以外の性にも自在に同期出来るような多角性を併せ持つこと)は必須の条件なのかもしれません。

モナ・リザのモデルはレオナルド本人との説もあったりし、大変謎に満ちた生涯を送った天才です。

レオナルドは受胎告知図でも名作を残しています。これは天使ガブリエルが処女マリアに、イエス懐胎を突然告げるドラマチックな場面を描いていますが、その聖なる驚愕に襲われたのはマリアではなく、じつは画家本人であったというのがこの句です。

あの、人の手によるものとは思えない深く静謐な画面を残した謎の画家、レオナルドその人の内実が、神秘的・批評的に射止められ、その驚きが、レオナルド-語り手-作者-読者を一瞬に貫きます。

レオナルドに処女-聖母を見出したこの語り手は、レオナルド・ダ・ヴィンチという名を持つ一人の男性と、おそろしい深みで、時空を超えて出会ってしまっています。両性具有性を見出す眼力を持ってしまったこの語り手自身も、多かれ少なかれ同じ性質を持っているのでしょう。

この出会いも、一種の恋かもしれません。




 更衣   関悦史

野郎が何で俺に抱きつく更衣

男子二十名水着の体見つ見られつ

昼寝せる身に九穴や美少年

女装と知つてもウェイトレス美し文化祭

男子同士軽く手つなぎ秋の川

春を苦しみ口紅さして男の子

同性を目で追つてゐる春思かな

ヤベエ勃(た)つたと屈むお前と春の暮

ガニュメデスを抱きこむゼウス春の雷

戯れに友とキスして卒業す


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