住所:瓢箪の中、特技:痛飲
西村麒麟句集『鶉』を読む
西原天気
西村麒麟第一句集『鶉』は2014年12月27日発行、私家版、B6判、本文80頁、1頁3句組み。その冒頭ページには次の3句。
へうたんの中より手紙届きけり 西村麒麟(以下同)
へうたんの中に見事な山河あり
へうたんの中へ再び帰りけり
この「へうたん」を「俳句」という語に置き換える。それがあまりに単純で粗野な読み換えであることは承知しつつ。
作者と「俳句の国」の幸福な関係に読者(私)は深く得心し、幸せな気持ちでこの句集をめくった。
「俳句の国」から手紙が届く。見れば見事な山河である。そしてその懐かしい世界へと帰っていく。
絵屏風に田畑があつて良き暮らし
「俳句の国」は虚構である。小さな虚構。俳句は短いのではなく、小さいのだ。小さな俳句=小さな虚構の中にある微細なことと、あるいは雄大な「山河」と、作者は陶然と酔うように付き合う。
そういえば、瓢箪は酒をつめる器でもある。
へうたんの中に無限の冷し酒
永遠に酔うに充分な量の酒=魅惑が瓢箪=「俳句の国」には詰まっている。そこで醒めたりするのは無粋。一人で飲み、皆で飲む。集中には酒の句が多い。私のお気に入りは、
おでん屋のあたりまで君居たやうな
「いつまで飲む?」と訊かれたから「いつまでも」しかないのに、「君」はどこかでいなくなる。
もう一度言うが、酒の句が多い。「西村麒麟は平成の李白である」。そう言ってしまうことにした。
●
一方、現実とは?
「俳句の国」で、瓢箪の中の酒に酔うように暮らす作者を通して、私たちは「現実」についても、また少し感触の違う現実に出会うことになる。
陶枕や無くした傘の夢を見て
夢で見る「傘」の現実感と「陶枕」という俳句的虚構。奇妙な倒錯、逆転がある。
どの部屋に行つても暇や夏休み
この句の「部屋」の生々しい現実感。所在ない。だから《へうたんの中へ再び帰りけり》となる。
節分の鬼の覗きし鏡かな
鬼(鬼役の人)が鏡の中に見る「我」。これも倒錯的な現実感を醸し出す。
虚構と現実は入れ子状態だ。夢の中に夢があり、それを現実が包み込み、それをまた巨大な虚構が包み込む。瓢箪の中に暮らす人に「現実」が見えないわけではない。瓢箪の外で暮らすいわゆる現実主義的な人の目に「現実」が明確に見えているわけもない。「平成の李白」と喩えたついででいえば、ここには「胡蝶の夢」がある。
●
句集というのは、作者の挙措が否応なく見えてくるものだ。麒麟さんの場合、その挙措がきわめて感じがよい。えらそうなことを言おうとしない。人間の、私たちの、どうしようもない情けなさと、とてもうまく付き合う。
働かぬ蟻のおろおろ来たりけり
この「働かぬ蟻」って、麒麟さんでしょ? で、私でしょう?
この句の初出時(『俳句』2010年11月号)、次の句もいっしょに並んでいた。
秋風の東京へまた戻るべく
句集『鶉』には漏れたようだが、蟻の句とこの東京の句を並べて眺めた。私にとってつくづく愛し続けた2句。
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雨もまた良しうなぎ屋の二階より
いいですねえ。鰻の白焼と熱燗。
肩の力を抜いて、自分に無理をさせず、愛すべきものをただ愛する。『鶉』はそんな句集です。
2014-01-26
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