2014-02-16

誤読 金子敦第四句集『乗船券』を読む 澤田和弥

誤読
金子敦第四句集『乗船券』を読む

澤田和弥



最初の10句を引用してみよう。

湘南の匂ひをまとふ初日かな
年賀客ともに渚へ走りけり
風花をいざなふ楽譜開きけり
初蝶がト音記号を乗せてくる
北窓を開けて便箋買ひにゆく
囀りやくるりくるりと試し書き
飴玉のさみどりの線春立ちぬ
春めくや京菓子の蓋開けてより
三月のひかりの色のメロンパン
テディベアに見守られたる雛の部屋


ここにどのような作者像を結ぶだろうか。

明暗で言えば、明らかに明であろう。どのような明か。ここに挙げた句が春の句というせいもあるかもしれないが、春の日差しのような、やわらかな明である。

これは他の季節の句にも言える。

夏の句もぎらぎらしていない。暑くない。あたたかい。秋も冬も。

金子敦(文中敬称略)の師である森岡正作は、栞において「少年のまなざし」と記している。確かにこのあたたかさは、思春期を迎える前の少年の持つあたたかさなのかもしれない。

青春性というよりも、その前も時代。少年時代を我々はこの句集に感じるのかもしれない。

『乗船券』は第四句集である。

第三句集『冬夕焼』は母への追悼の句集だったという。

望の夜や母の遺影を窓に置き
天上の母が落とせし木の実とも

これらの句には痛切な亡き母への思いというよりも、天上の母へのあたたかな思いを感じる。

これを少年性と呼ぶことはできないが、大人の心の中に住む少年ということはできるのではなかろうか。

あたたかや主宰の横に座りゐて

ここまでに素直な主宰への愛を語られたとき、そこには「少年」という言葉によって髣髴とされるまっすぐな視線を読み取りたい。

しかし、この「少年」は何も知らない少年ではない。

「あとがき」には、パニック障害によって、一歩も家を出ることのできなかった過去が記されている。

パニック障害は非常に苦しい。死ぬ訳ではない。しかし、「これは間違いなく死ぬ」という尋常ならざる恐怖感に苛まれる。家の外に一歩も出ることが出来ない、あの苦しさを乗り越えた「少年」なのである。

「春の日差しのような、あたたかな明」と前述したが、正確には「小春日和のような」といった方がいいかもしれない。

いつ冬の寒さに襲われるか分からない、しかし今こんなにもあたたかい、そのあたたかさ、今を充分に幸せに感じ、生きよう。そのような「明」を金子敦の句から感じるのである。

カッターの刃先光れる盆支度

普通の盆支度のワンシーンである。しかし私はここに金子敦のかすかな「恐怖」を感じる。今、ここにある生を揺さぶるような大きな恐怖。この前後の句はやはりあたたかい。唐突にこの句がある。

これを思ったときにふと、先に挙げた句が頭をよぎる。

望の夜や母の遺影を窓に置き

この句の直前に掲載されている二句を挙げたい。

満月の向かう側より呼ばれけり
月の舟の乗船券を渡さるる

たいへん抒情性に富んだ句である。

特に二句目は句集名にもなったと考えられる句である。実は私は作者本人から句集の由来を聞いている。そこから考えて、掲句はそのまま抒情的に読んで間違いない。

しかし私は敢えて「誤読」を試みたい。

満月の夜に窓辺に母の遺影を置く。母は天上の人である。満月の向こう側から作者を呼んだのは母ではないか。亡き母の呼び声を「聞いて」しまったのではないか。

この乗船券は「死」の世界への切符ではあるまいか。

愛する母のもとへ行きたいという思う気持ちを誰が否定できようか。

パニック障害には必ずと言っていいほど、或る病が伴ってくる。うつ病である。うつ病のもっとも恐ろしい症状は「死への誘惑」である。「死の渇望」とも言っていい。

とにかく死にたくなる。

この世という地獄から無の世界へと、ものすごい吸引力で引き込まれる。これは「ああ、これなら死んだ方がマシだ」というレヴェルではない。

「死」以外考えられなくなる。「死」だけが全てになる。

作者がそこまで重い症状を呈したかどうか、私にはわからない。しかし、私自身の経験から言えば、そういう病である。

俳句作者は己の作品の50パーセントしか作りえない。十七音というきわめて小さな詩型はそれしか許さない。残りの50パーセントは読者に委ねるしかない。

つまり俳句という詩型がきわめて特殊である点は、作者と読者の共同作業によって、初めて100パーセントの作品に完成させられるということにある。

私は読者として、金子敦の作品をそのように「誤読」する。彼はその恐怖を、きわめて繊細な抒情性とあたたかさで表現している。

おそらく本人自身気付いていないと思う。しかしこれらの句を眺めたときに、私はそう思わずにいられないのである。

これは少年のまなざしではない。本当の恐怖を知っている者だけが表現しうる静謐な世界である。

大人を超えた、聖者の世界である。

これは「二〇一〇年」の章の冬の句にも顔を出す。

ガードレールに凭れてゐたる焼藷屋
影踏みの子のゐなくなる返り花
とほき日のさらに遠くに冬夕焼
寒波来るアルミホイルの切り口に
(二句略)
文庫本伏せて不在の暦売
熱燗や無かつたことにする話
なんでもないなんでもないと蜜柑むく

これを「少年のまなざし」と言えようか。

先の句に見られるのは「無への回帰」、つまり「自分が不在になること」ではなかろうか。本当にいなくなるのは、影踏みの子でも、暦売でも、話でもない。自分自身ではないのか。

しかし、それを作者は「なんでもないなんでもない」と言い聞かす。そうしてまた、あたたかな少年のまなざしへと戻っていく。

金子敦の視線は確かに「少年のまなざし」である。純心すぎるほどの少年のまなざしである。

この句集は、特に「お菓子俳句」について言及されることが多い。それはその少年性やあたたかさに起因するものだろう。

しかし彼のあたたかさは小春日和のあたたかさだ。

パニック障害という「冴」がすぐそこにある。だからこそ、彼のあたたかさは生ぬるくない。徹底して、あたたかいのである。

よく考えてほしい。本物の少年はそこまで純心であろうか。無垢であろうか。少年のもう一つの特徴が残虐性である。蟻の穴にホースを突っこんで、蛇口を全開に開いたり、美しい金魚を水槽から取り出して、そのまま放置したり。しかし金子敦の中の少年にはそのような残虐性はない。

徹底したあたたかさは、徹底した恐怖体験から生まれている。それがパニック障害なのではなかろうか。家を一歩も出ることのできなかった過去なくしては、この徹底したあたたかさは生まれなかったかもしれない。

繰り返す。

これは私の「誤読」である。

全ての精神疾患患者が、私自身と同じ心情や経験をしている訳ではない。自分にひきつけすぎる読みだ。

しかし私の中の天邪鬼が疼くのだ。

「この句集は『お菓子俳句』じゃない。もっと本質は奥にある」と。

この句集評は金子敦自身を傷つけるかもしれない。

しかし敢えて書いてしまった。

こう読んでしまった。車谷長吉の記すように、書くという行為はまさに「業」である。

以上。

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