俳枕20
小豆島と尾崎放哉
広渡敬雄
「青垣」27号より転載
小豆島は香川県に属し、瀬戸内海では淡路島についで二番目に大きな島。最高峰は星ヶ城山(817㍍)で、寒霞渓や銚子渓は新緑、紅葉で名高い。瀬戸内海型気候で温暖少雨のため、オリーブ栽培が盛ん。小豆島八十八所霊場があり、同島出身の壺井榮の小説『二十四の瞳』が映画化された。
尾崎放哉は、大正14(1925)年8月に来島し、西光寺奥の院・南郷庵で翌年4月7日、41歳で没した。
吉村昭の小説『海は暮れきる』はその八ヶ月を精緻に描く。
春の山のうしろから烟が出だした 尾崎放哉
蛙つぶやく輪塔大空放哉居士 水原秋櫻子
風絶ゆるなくオリーブの匂ふかな 清崎敏郎
葉牡丹の長けて塔なす島札所 池上樵人
裏も見過し放哉の墓さみだるる 松崎鉄之介
「春の山」の句は放哉の辞世とされ、意識朦朧とした中で、自身の屍を焼く煙に思いを馳せたのかも知れない。
「絶唱とも言われる何とも象徴的な句。人間の営み(生)であれ、荼毘の煙(死)であれ、煙は内的な風景まで昇華されている」(伊丹三樹彦)との鑑賞もある。
師荻原井泉水から小豆島行きを勧められ、〈翌(あす)からは禁酒の酒がこぼれる〉の送別の句を拝して京都を離れ、僅か八ヶ月後であった。
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放哉は明治18(1885)年、鳥取市生れ、本名は秀雄。父尾崎信三は元鳥取藩士で裁判所書記官であった。
県立鳥取第一中学時代から俳句(「ホトトギス」投句)を始め、上京後の第一高等学校時代、一高俳句会の一年先輩で生涯の師となる荻原井泉水と出会う。東京帝国大学法科大学卒業後東洋生命保険や朝鮮火災海上保険に就職するも、極度の酒癖の悪さが影響し、退職を余儀なくされた。
生命保険会社勤務時代の大正4(1915)年頃から井泉水主宰の自由律俳句「層雲」に出句し、徐々に種田山頭火等と同誌を代表する俳人として注目されるようになった。
酒乱と人への蔑みは二十一歳の頃、従妹の沢芳衛へ求婚するも彼女の兄から「血族結婚」との医学上の見地から反対されて破談となったことが原因とされるが、先天的なアルコール障害だとも言われる。満州での再起も果たせず、肋膜炎悪化での入院、妻馨にも愛想をつかされて別居となった。
世俗を離れての作句活動を求め、京都左京区鹿ヶ谷の西田天香の一燈園、知恩院塔頭常称院、須磨寺大師堂、福井県小浜の常高寺と短期間で転々とする。
最後は暖かな海の見える場所での庵主を希望し、師井泉水の勧めで、「層雲」会員の資産家井上一二や西光寺住職杉本宥玄を頼って小豆島に渡る(実際は両人の事前の同意はなく、文字通り押しかけ)。
朝鮮火災海上を罷免される前後から欠詠がちだった「層雲」への投句を再開。流転の境遇が深まるにつれ、句境は高まり、殊に南郷庵での「独居無言」の七ヶ月間の作品は、自由律俳句の最高峰との評価が高い。
癒着性肋膜炎から来る肺の衰弱、ついに湿性咽喉カタルとなり、最期は隣家の漁師の妻南堀シゲの看病のもと4月7日午後8時頃逝去。大阪から駆け付けた妻馨は、僅かに臨終に間に合わなかった。同8日、井泉水、妻、姉等で西光寺に埋葬された。戒名は「大空(たいくう)放哉居士」、唯一の句集として、同年6月井泉水編の『大空』が刊行された。
「残っている書簡だけでも420通を越え、長文の書簡の中で自らの俳句を語り、書簡文学をなしている。小豆島・南郷庵での暮しは、死に至るまで身を削り命懸けで作品の純度を高めた七ヶ月であった」(村上護)
「放哉は最後の二年間でその言葉が輝いた。それを可能にしたのは、俳句の最も伝統的な技法である取り合わせである。自由律俳句は反伝統的とみなされがちだが、放哉のイメージは極めて伝統的技法がもたらした」(坪内稔典)
「放哉と同じ結核患者だったという親密感から、放哉の孤独な息づかいが私を激しく動かした」(吉村昭)
「誰れだって生活が破綻すれば、放哉のように自暴自棄になっても不思議ではない。放哉の吐露する孤独は自覚しようがしまいが万人の胸底にきっとあるものである」(前田霧人)
たった一人になり切って夕空
こんなよい月を一人で見て寝る
犬よちぎれるほど尾をふってくれる
すばらしい乳房だ蚊が居る
障子あけて置く海も暮れきる
ふと顔を見合わせて妻と居った
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
足のうら洗えば白くなる
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
バケツ一杯の月光を汲み込んで置く
放哉の句を読むと、これほどまで命を懸けて死の淵までに自身を追い込み、心身とも劣悪な状況に置いて、真摯に精進しなければ純化された「詩」は生まれないのかとの怖れすら感じられる。俳句=詩=宗教と放哉は言う。
放哉と山頭火。自由律俳句の双璧であるふたりだが、旅を続けて句を詠んだ動の山頭火に対し、静の中に無常観と諧謔性そして洒脱味に裏打ちされた偏向的性格の放哉とは極めて対照的である。
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