2014-07-20

【句集を読む】 ふとんとは、なんだったのか 西原天気句集『けむり』の一句 柳本々々

【句集を読む】

ふとんとは、なんだったのか

西原天気句集『けむり』の一句


柳本々々



県道に俺のふとんが捨ててある  西原天気

「県道」とはいったいなんなのか、というところからはじめたいと思います。

辞義的には県が管理する道路が「県道」ですが、県道はそうした大文字の主体が管理する〈場〉であると同時に、車やひとといった小文字の主体が偶発的に通行・通過する管理不能の〈場〉としても機能しています。

「県道」にはよくなにかが「捨ててある」のですが(たとえばわたしがかつてみたものでは、マンガ雑誌・空き缶・マネキン・ひき肉がありました)、これがおそらく「県道」の〈ねじれ〉としての〈記号的場〉を用意しています。

「県道」とは誰もが所有化できない公道であるゆえに、だからこそなにかを捨てる・なにかが捨てられてあるといった行為・出来事が〈侵犯〉としての意味をもってきます。この句の語り手が「捨ててある」「俺のふとん」を見出したのはこのような「県道」でした。

この「県道に俺のふとんが捨ててある」という句なのですが、わたしは、選択されなかった潜在的な句として「県道に俺のふとんは捨ててある」や「県道に俺のふとんを捨ててある」があることに注意してみたいのです。

つまり、「ふとん」の助辞をすこし変えるだけで、語り手が「俺のふとん」が県道に捨ててあることを知っていたかどうかが変化してくるのがこの句なのです。

たとえば「ふとんは捨ててある」の場合、語り手はこの県道に捨ててあるふとんのことを係助詞「は」で話題として提示したことになるので知っていたということになります。「ふとんを捨ててある」にしても格助詞「を」は動作の対象をあらわすのでやはり語り手は捨ててあるふとんのことを知っていたことになります。

しかし「ふとんが捨ててある」の場合、様相(アスペクト)は変わってきます。格助詞「が」は主格をあらわすものなのでこの「ふとんが捨ててある」という命題のなかに語り手が関係する余地は言語的にはありません

語り手が「ふとんは」と話題を提示したわけでも、「ふとんを」と動作の対象にしたわけでもなく、「ふとんが捨ててある」は命題として〈主格:ふとん〉のもとに語り手抜きで完璧に成り立っています。

つまりこのような言語的状況からはじきだされている語り手とは、裏を返せば語り手がふとんが捨てられていたことを知らなかったということ、いま「県道」においてはじめて「ふとん」を目撃していることを示しているのではないかと思うのです。

語り手は助辞の選択において「捨ててある」「ふとん」の圧倒的な存在感を示しています。まさにそれは「俺のふとん」でありながら「俺のふとん」でなくなっているというやわらかくもシビアな〈ふとん疎外状況〉です。

語り手ができることといえば、言語的に疎外されてあるこの状況で「俺の」とふとんに所有の言明をすることなのですが、この句の上五に「県道に」とあるように〈ここはだれの場所でもない場所〉なのだということがポイントです。ここでは「俺の」といった瞬間、「(県の管理する場所の)俺の」といったような所有の反転が行われるはずです。それがおそらく先にも述べたような「県道」の〈ねじれ〉です。

ところで不思議なことなんですが、同じ短詩型文学かつ同じ「県道」においてもうひとり、捨てられたあるものを目撃している語り手がいます。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斉藤斎藤『渡辺のわたし』

この歌の語り手は捨てられ「ぶちまけられ」ている「のり弁」を「県道」において見出しています。

ここでは〈見出してしまう〉ことそのものがドラマになっている点に注意したいと思います。なぜなら先ほどの西原さんの句もまた「俺のふとんが捨ててある」ことを見出してしまうことのドラマだったからです。

「県道」とはこのように〈偶発的偶有性〉が支配する場所です。始終なにかが通過し、通行し、とおりすぎ、だれかがなにかを投げ、おとし、すて、ぶちまけ、わすれるといった、〈ひんぴんなふいうち〉が多発する場所です。

しかしそんなふうに「俺のふとん」が「捨ててあ」ろうが「のり弁」が「ぶちまけられ」ていようが、それは偶有的で付帯的でしかなく、「県道」そのものにとっては本質にはなりえない場所、それも「県道」なのです。

にもかかわらず、「県道」という特異な場所において〈よそもの〉の主体になってしまった語り手が、〈なにか〉が捨ててあることを目撃してしまうことが〈ドラマ〉になってしまうような場所。それも、また、やっかいなことではありますが、やはり、「県道」なのです。

「県道」とは、すみつくことができない場所であり、とおりすぎるしかない場所であり、わたしの場所ではない場所ですが、にもかかわらず/だからこそ、〈私秘的〉な「ふとん」や「のり弁」の〈遺棄〉が〈わたくし〉のドラマとなるような場所なのです。

しかし、もう一方で、こんな声もきこえてきます。いや、この西原さんの「ふとん」の句は、むしろ〈ふとんのドラマ〉だったのではないかと。おまえはまだ〈ふとん〉がなんたるかを理解していない。おまえの問うべき課題は、「県道」ではなく、「ふとん」だったのだ。つまり、おまえがおまえに問いかける命題はこうだったのだ。

──ふとんとは、なんだったのか。

しかしこのタイトルをわたしは「県道」に〈あえて〉捨ておくことにして、わたしのドラマがないものか県道をあるきつつ、この文章をおわりにしたいと思います。──あ、俺のふとん。

お布団が死体のように捨ててある  笹田かなえ「プルタブ」『新世紀の現代川柳20人集』

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