【八田木枯の一句】
こみあげて母打擲す芒かな
角谷昌子
前回に続いて、木枯にとってことに愛着のあった第二句集『於母影帖』(1995年)から、もう一句抜いてみたい。
こみあげて母打擲す芒かな 八田木枯
「こみあげて」とは、それまでこらえにこらえていた思いが激情となってほとばしるさまだ。この句では、母に対する恋慕、それに相反する怒りや哀しみが堰を切ったように溢れ出し、葛藤に身悶えしながら「打擲」するに至る。子の慕情を受け入れようとせず、ほかの男(父でもある)を愛する母への恨み、過剰に自分を支配しようとする母への反抗、さまざまな思いがないまぜになる。押え切れぬ情念に支配され、手加減もせず、母を打ち続ける。やがて自分でも思いがけない母への蛮行に愕然と立ちすくむ。母を打った手の痛みは、そのまま己の心を強く噛むのだ。
一方、打たれた母は芒叢に身を丸め、痛みに耐えて喘ぎながら、身の不幸を嘆く。いや、痛みこそ女の業の深さから逃れられるすべとして、儀式のように「打擲」を受け入れたのかもしれない。打ち据えられることに、不思議な快楽を見出しながら。母の体を包み込む芒原は、日差しに銀髪のような穂をそよがせ、ざわざわと波立つ。
世阿弥の代表作と伝えられる能に「井筒」がある。この複式夢幻能は、帰らざる夫をひたすら待ちわびる妻の寂しさを序の舞で表現する。「井筒」とは、幼馴染である夫との長い歳月を偲ぶ、象徴的なタイトルだ。伊勢物語の二十三段、「筒井筒」が元となり、「筒井筒 井筒にかけしまろがたけ 生ひにけらしな妹見ざる間に」と切々たる謡が入る。業平伝説に基づいて、知立市の無量寿寺には、「筒井筒」にちなんだ「ひともとすすき」が植えられている。男女の縁を結ぶというこのすすきは慕情や哀しみを掻き立て、かつ慰める効果があろう。
掲句の「芒」は、この「筒井筒」のすすきが季語として選ばれたのではなかろうか。謡曲に造詣の深い木枯だったら、母を打擲する舞台に銀の蓬髪のごとき芒原を出現させそうだ。「井筒」の男女の微妙な心の機微を象徴させようと、すすきを季語として働かせたのではないか。芒は母を癒し、子の激情を和らげるように、日に輝きながら二人へと寄せては返すさざ波となる。柔らかな穂で母と子の葛藤を永遠に包み込む。
『於母影帖』には、エディプスコンプレックスや近親相姦願望などがちりばめられていることは、前述した通りだ。だが作者はおどろおどろしい題材を描きながら、普遍へと導くため、季語をさり気なく配していると思われる。この句ではすすきの波は読者のこころへも優しくかつ妖しくひたひたと寄せて来る。
大いなる作風転換を果たした『於母影帖』に続く、次の第三句集『あらくれし日月の鈔』では、木枯独自の世界が樹立される。次回(2014年10月12日・予定)はその特色について述べたい。
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2014-09-14
【八田木枯の一句】こみあげて母打擲す芒かな 角谷昌子
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