2014-11-09

BLな俳句 第5回 関悦史

BLな俳句 第5回

関悦史





『ふらんす堂通信』第140号より転載

少年の腕真すぐなる鳥兜  加根兼光『句群po.1―半過去と直接法現在として、あること』

鳥兜はいうまでもなく毒草ですが、青紫の花がすっきりと鮮明。

「腕真すぐなる」と捉えられた少年は鳥兜のイメージと重なり合いますが、過剰な攻撃性は持ち合わせておらず、ほっそりとした植物的な静かなたたずまいの中に毒の力を秘めていることを窺わせます。

句の言葉自体も五七五に無理なく収まって端正ですが、少年の本性ともいうべきものが、その存在感を通して把握されています。ことさら賛美したり、心情的に寄っていくのとは別の、なめらかながら硬質で理知的なアプローチによって核心に触れていると言えるでしょう。


若竹や稚児美しき鞍馬寺  村上蛃魚『夜雨寒蛩』

この句の「若竹」も写実的に寺の背景を成していますが、「稚児」のイメージを健やかで清潔なものにすることに役立っています。

鞍馬は牛若丸(源義経)が修行した地であり、この稚児からは牛若丸の容姿への連想も働きます。

この景は、鞍馬寺が閲してきた歴史的歳月と、そこでの人々の営みが、稚児の姿を取って不意に目の前にあらわれたようでもあります。「稚児」はいわば、古い謂われを持つ寺院がそのまま若くみずみすしいものとして生き続けているさまを体現しているので、「美しき」が空疎な外見賛美に終わっていないのはそのためでしょう。無欲でやわらかい心性のみが受け止めることができた美しさです。

作者の蛃魚は、土屋文明の師であった歌人村上成之の俳号。最近、林桂により「ホトトギス」への投句が句集『夜雨寒蛩』にまとめられました。


少年の耳に飼われている蛍  対馬康子『純情』

はかなげで、それゆえに異類との交感もできるという、死の影を帯びた繊細な少年像です。

しかしなぜ耳に蛍なのか。

「恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」と都都逸に歌われたとおり、蛍は鳴き声を発しません。光るだけです。つまりこの少年は、自分の耳に飼っている蛍を、聴覚的には感知できない。しかし、にもかかわらず、蛍は勝手に住みついているのではなく「飼われている」。ならば少なくとも飼っている少年の側は自覚的なのではないか。

少年は蛍の意思を、聴覚とは別の回路で聴きとることができるのかもしれません。普通、飼うとはいっても虫を相手に感情的な交流を求めることはありません。犬や猫ならばともかく、生物としての次元が違いすぎ、交流のしようがないからです。なのになぜこの少年と蛍には交流があるように見えてしまうのか。

それは少年ではなく蛍の側を主体にしているからです。「少年が耳に蛍を飼っている」では、句の意味合いは全然違ってしまい、蛍は単に飼われている虫というだけの存在となります。ところが蛍(それも普通ではない場所にいる)の方を中心化することによってそちらも人格のようなものがあるかに見えてしまい、それと奇妙な関係を結ぶ少年も、何かの精のような不思議な透明感を帯びることになるのです。

しかし、飼われている蛍は果たして自分の居場所を自覚しているのでしょうか。この辺が昆虫ならではの謎めいたところで、二者の間には普通の意味での交流も関係もじつはないのかもしれません。自覚せずして飼い、身のうちに住まわせる。そこから、自分が関係すべき相手と引きつけあい、ともにいるのに多次元的にすれ違っているような切なさも淡く漂ってきます。


秋光に遠き落馬の騎手二十歳  対馬康子『純情』

同じ二十歳でも与謝野晶子の《その子二十歳櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな》の量感あふれる堂々たる自足ぶりと比べると、落馬の騎手の「二十歳」は身体の躍動の果ての事態であるにもかかわらず、なんと脆くてか細いことか。

秋光をまとうことで男性の身軽な身体の哀しさが美化されますが、あくまでも遠くから見守るのみで、落馬の実際の痛みや恥辱には寄り添えない。見ている側の美化がそのまま酷薄や無力感に転じてかねない場面ですが、己の内奥へと刃が返る寸前に一句は素早く完結し、切り取られた景のみが残ります。


少年のうしろの蛇の青光り   鳴戸奈菜『露景色』

どう見ても少年に狙いをつけていますね、この蛇は。

眼が光ったといった程度ではなくて、全身が青光りを発している。ただものとは思えません。

少年の背後に光沢ゆたかな蛇がたまたまいただけともとれますが、そう見えなくしているのが「うしろの」の「の」でしょう。「に」ならばまだ狙い澄ましているとまでは言いきれませんが(「に」には一点に引きしぼる効果があるので、蛇がそこから動きそうになくなる)、「うしろの蛇」で、少年と不可分なかかわりを持った蛇になります。

あえて少年に危険を教えずにその先が見たいという人もいるかもしれません。


人去りて一つになりし芋の露   宇佐美魚目『薪水』

サトイモの葉に乗った水の玉が流れ、一つになる。

どうということもない出来事のはずですが、「人去りて」が怪しい。人目を忍ぶというよりも、人が感知することを許されない世界での、とても純一な無性別の官能に触れている気がします。

宇佐美魚目といえば、澄んで落ち着いた閑雅さの向こうに非人間性すれすれの官能性を閃かせる名手であり、この句も《すぐ氷る木賊の前のうすき水》《白昼を能見て過す蓬かな》などの名吟に通じる冷やかな艶があります。


神の蛇にはよお眠りと老のこゑ  宇佐美魚目『紅爐抄』

こちらも少々俗界離れした、神仙じみた二者のやり取り。

「老のこゑ」は作者その人の声なのかもしれませんが、普通の人間とは思えない。

「神の蛇」が「眠る」という事態も、ただの冬眠ではなく、何かもっと大きなものの位相がうつろっていく風情。

「老のこゑ」の主の「老い」も春の到来とともにみずみずしく若返りそうでもあり、あるいは「老い」といいながらも姿かたちは一向に衰えないファンタジックな不死の存在のようにも思えます。あまり同類の多くなさそうなそうしたものたちが示しあう慈愛の、孤心と、世界大の融和に裏打ちされた格別の味わいを汲むべき句でしょう。


家畜車にただひとり滲
(メンスト)(ラチオン)の少年
  安井浩司『赤内楽』

異様で無惨な状況の少年です。人間扱いされていない。「家畜車」に乗せられ、着いた先で一体どういう目に遭わされることか。無事に済むとは思えません。

さらに異様なのは「滲血」でこれに「メンストラチオン」とルビが振ってある。これは通常、月経を指します。男性とも女性ともつかない、というよりどちらからもはじき出されて性的アイデンティティを持ち得ない「ただひとり」の少年と、そこに降りかかる災厄と暴力の予感。

「BL」の呼称が発生する前のマンガや小説には、拒食への親和など、自身の肉体への拒否感が潜んでいる表現がときに見られましたが、この句の孤独感にはそれに通じるところ、違うところが複雑にまざりあっています。


少年や涅槃前夜のみなおみな
   安井浩司『阿父学』

「涅槃」を季語としてとれば、陰暦二月十五日、釈迦入滅の日の法会を指すことになります。季語でないととった場合は、いろんな意味が重なっているものの、おおむね、煩悩の火が消えて、苦がなくなった状態となる。どちらかというと季語的な(つまり毎年繰り返される)意味に限定せず、この少年たちにとっては一回限りのことととった方が、この句の内圧が高まる気はします。

「おみな」という語感のやさしさも掬すべきでしょう。

寂静の境地にいたる前夜、少年たちは「おみな」となる。性的には攪乱されているにも関わらず、彼らは不思議な透明感と安らぎを漂わせています。「前夜」の緊迫感とのコントラストにもよるのでしょう。

男性、女性両方の位格を経た少年たちの、その先に待つもの。そうした形でイメージされた涅槃はどこか異教的な匂いも漂いますが、なぜか若いまま「涅槃」に入ってしまう少年=おみなたちには、無垢なるものの印象が強く、それが同時になまめかしい。

そしてこの、涅槃への階梯を含んだ世界も、奇怪ながら柔らかい包容性に富んでいて魅力的です。


師と少年宇宙の火事を仰ぎつつ  安井浩司『宇宙開』

安井氏の句について書き始めたところへ、ちょうど最新句集『宇宙開』が届き、さっそく開いてみたらこの句があって、その壮大で奥深いヴィジョンに打たれました。似た感銘を与えてくれるものは、他の芸術ジャンルを探してもウィリアム・ブレイクの絵画作品など、ほんの一握りなのではないでしょうか。

少年は一応出てきますが、もうBL的かどうかとかは正直どうでもいい。あえてそこに気をつけて見た場合でも、この句の眼目は師と少年との関係にはならない。「師」が求道性を導入しているのですが、その庇護を受け、導かれながら「宇宙の火事を仰ぎ」得る存在という少年像の呈示の方が主になるでしょう。「銀河鉄道の夜」のように、現世の外へ漂い出しながら真を求める、純粋で高潔で、しかも感じやすい魂を宿したものとしての少年です。

単なる天体の爆発ならば自然科学の文脈におさまってしまいますが、「宇宙の火事」は明らかに別次元の出来事です。ジャンルファンタジー的な想像力に通じるところもないではありませんが、この「火事」の光に身をつらぬかれるような観念性は、ジャンルファンタジーの担いうるところでもないでしょう。

そしてそのヴィジョンが大いなるものであればあるほど、それに見入る少年の心身のはかなさ、やわらかさが際立ってくる。この句から少年美を掬いとるとしたら、このヴィジョンにつらぬかれる心身の、この世のほかの透明感をおいてほかにはありません。

安井浩司の句も近年、息詰まるような不吉な緊張をもたらすものは少なくなり、安らかにたゆたう開放感のあるものが増えてきましたが、この句も「仰ぐ」という垂直な精神性を持ち、畏怖すべき巨大な事象を描いていながらも、句のありようとしては、深々と息のできる、その中でいつまでも遊べるような時空を現出させています。

 *

ペットボトル  関悦史

解氷は石田彰の声したり

春の雲女の子たちはうるさいねぇ

春光差すペットボトルの水 「察して」

友達と重なつてみる春の昼

新草(にひくさ)を付け友達と起きあがる

春セーター脱ぐ筋肉の動きけり

京浜線山手線春を併走し

少年の佐保姫のみが立つ列車

己を撮る偽娘(ウェイニャン)の腿春寒き

春風やミニスカートの偽娘(ウェイニャン)に

石田彰=声優。『新世紀エヴァンゲリオン』の渚カヲル役等で知られる。
三句目は歌人荻原裕幸氏の、二〇一四年三月七日の自歌自解ツイートによる。
偽娘(ウェイニャン)=中国の女装男子で、日本では「ジャーニャン」とも訓まれる。

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