【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い
十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈序章〉
田島 健一
不思議なもので、2015年の年明け早々、自分よりも十歳以上若い作者たちがつくった十二編の作品が目の前にある。
いずれも石田波郷賞に応募された作品だという。プロフィールを拝見すると、中には私と二十歳以上離れた作者もいるようだ。世代の違いがどのような意味をもつのか判りかねるが、それでもこの十~二十年以上の年齢差というのはなかなかのもので、おそらく自分が考えている以上に彼らとの間にはさまざまな点で深い断絶があるだろう。
これだけ歳の離れた作者たちの作品について、何をどう鑑賞したらよいのか。正直なところ、戸惑うばかりである。刻々と移り変わる時代状況のなかで、自分よりも十年以上を遅れて生きていく作者たちの作品を通して、まだ何も成し遂げていない私のような能天気な者が、何を言うことが許されているだろうか。過酷な未来を予言したり、道徳についてしたり顔で説教したりするのは、まっぴらごめんである。
若い彼らの作品は、総じて思慮深く、思いやりに満ち、優しい印象を受ける。
一方で、これらの作品には、何者かへの気づかいが行き届いており、俳句という文芸がもっている独特の文化や習慣に常に配慮しているような気配も持っている。これは、彼らに共通した、彼ら独自の身のこなしであるようにも思える。
実はそのような配慮は、私自身がこれまでもっとも自分自身から遠ざけてきたものだ。
自分を野放図にしておくと自然と湧き出してしまう、そのような気づかいを、私自身はずっと抑え込もうとしていたのではなかったか。この違いは、世代の違いなのかも知れないし、単純に、私という個人と、彼らとの個性の違いなのかも知れない。
何はともあれ、もはやほとんど接点を持たないと感じられる彼らと、おなじ俳句をつくる者として共感しあえるものが何かあるだろうか。ひとつだけ、これだけは共有できるかも知れない、と思いあたることがある。それは、
「俳句は、天才がつくる文芸である」
ということだ。これは、私にとっても、彼らにとっても大事なことだ。
けれども、さまざまな気づかいの結果、誰もこのことを声高に言うことを控えている。このことについては、本鑑賞の最後でもう一度触れる必要があるだろう。
その前に、いま目の前にある十二編の作品について語らなければならない。しかし、すでに述べた通り、それら「について」語ることはとても難しい。
そこで、この十二編の作品「を通して」あるいはそれら「のために」、十二編の断章を書こうと思う。断章としての現実世界の様相のなかで、この思慮深い十二編の作品を構成する一句一句が、どの様な位置をとるのかについて自分なりに見ていきたい。
念のため言っておくが、それらの断章はこの十二編のためのものであって、その他の誰のためのものでもない。つまりは、それによって俳句が上達したり、えらい俳人になれたりするものではない。ましてや石田波郷賞の受賞に益するものでもない。あしからず。
〈第一章〉へつづく
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