2015-02-01

俳句の自然 子規への遡行38 橋本直

俳句の自然 子規への遡行38

橋本 直
初出『若竹』2014年3月号 (一部改変がある)

前回確認したように、子規は『俳諧大要』冒頭において、各個に宿る「美」をもって俳句の標準を定義した。しかし、絶対の美などというものはなく、個人個人の「美」はばらばらなものだが、向かう方向は同じだという言い方は見方によってはずいぶん曖昧であり、自身でも不満で言葉足らずの感は否めなかったのかもしれない。翌年再び、「我が俳句」(初出明治二九年七月二五日・八月二五日「世界之日本」)において、この「美」について改めて論じている。

この文は二章からなり、「美の客観的観察」「美の主観的観察」という章題がつけられている。自己の俳句と美をいかに密接に考えていたかがわかるし、「観察」という用語に子規の慎重かつ、科学的な態度を見ても良いように思う。

一章目の「美の客観的観察」において、まず子規は『俳諧大要』と同様に美の絶対的標準の有無について検討する。「今日の哲学心理学は其窮極に及ぶまで一々にこれが解釈を与えざるなり。然らば即ち各自の嗜好に異同ありて其異同の上に正不正を知るべからざるか。」と、これが当時の学問上で答えのない問いであることを断った上で、この「各自の美の標準の外に一定不変なる真正の美の標準有りや無しや」という疑問が「吾人の常に疑を抱く所にして未だ明答を得ざる所なり。」と述べ、『俳諧大要』で一旦明快に切り分けた問題を蒸し返している。といって論旨を変更したわけではなく、丁寧に同じことを繰り返していて、「真正の美の標準の如何なる者なるかは之を明示する能はざるべし」と再び断言し、自分は個々の美と感じる嗜好の差異の「此錯雑の中に些少の統一を認め此紛乱の中に一縷の秩序を発見」したのだという。ここからが重要なところであるが、子規は、時代や個々人による差異ではなく、「各自嗜好の変化」が最も注意を要するという。そこにこそ「大体一定せる方向あることを認むるなり」というのである。そしてそのことを「美は事物を二分して其一方に多く他方に少し」と断じ、この変化を「嗜好の進歩」であるという。

さらにそこで注意をするのが「少数なる文学の識者」の「嗜好及び其進歩」であるという。この「識者」とは、「文学的著作の如何なる部分に向かつても精密に之を比較判定するを得る者」のことと定義される。子規に言わせれば、古今を問わないその「識者」たちの嗜好と嗜好の変遷をみれば「一層明瞭なる美の区域を認め得る」。ゆえに、それを一歩進め「識者中の識者」に取材すれば、「極美」がどこにあるかわかるだろうというのである。子規はさらにこれを一歩進めた問題として、「時代と個人とは如何なる関係を以て進みしか、又進みつゝあるか、又進むべきか」を挙げ、多少の憶測はあるが、学識不足ゆえ答えられない、と結ぶ。

もし、これが子規の自負であれば、自分こそ「極美」を知っているものだ、という意味にも読める文脈ではないだろうか。最後の部分はできもしない未来予測という愚行を犯さないための謙遜ともとれなくはないが、わざわざこのようなことを言挙げする子規の中に、実は言おうと思えば明瞭に言えるのだ、という確固たる自信のようなものを感じ取ってもよいような気がするのだ。

その上で、次章「美の主観的観察」に移ると、主観の一般を論じるのではなく、子規自身による自己の主観的美観の変遷についての言及となっている。しかも、その中で子規は、「暴露的に言はば我が美の標準と文学的識者の美の標準とは大体に於て一致したりと信ず」と正直に言うのである。そして自己の嗜好の変遷を述べ、やがていわゆる「写生」へといたる。「初めは自己の美と感じたる事物を現さんとすると共に自己の感じたる結果をも現さんとしたるを終には自己の感じたる結果を現すことの蛇足なるを知り単に美と感ぜしめたる客観の事物許りを現すに至りたるなり(中略)写実の結果は常套を脱する上にありて効力を現したり」。

前回の末尾で、子規の考える進歩について、「いわゆる近代の素朴な進化論的思考の一環と捉えるべきであろうか」と疑問を提示したが、子規の言う「進歩」は、どうやらそのようなものではないと言うことができるであろう。「我が嗜好の変遷を概括して言えば其美と感ずる者漸次種類に於て増加し程度に於て減少したるなり(中略)嗜好の種類多きを加ふるに従ひ一種類に於て美と感ずる句は次第に少きを加ふる傾向あり」という子規の嗜好は、子規自身により振り子に喩えられるが、単線的な発展ではなく、形なく水のように広がり、波のように一瞬どこかに偏ってもやがて元にもどるような性質であるようなものかと思う。言い換えれば、途中偏向があったとしても、やがてありとあらゆるものへ「美」を見いだすようなもの、ということができよう。

子規はこの後さらに、このことは俳句に限らず、文学全般に言えるのだという。「故に文学に於て我が美とする所はある人の説く如く理想をのみ美とするに非ず、写実をのみ美とするに非ず、将た理想的写実又は写実的理想をのみ美とするに非ず、我の美とする所は理想にもあり、写実にもあり、理想的写実、写実的理想にもあり、而して我の不美とする所も亦此等の内に在り。我は宇宙到る処に美を発見せざるごとく無く又不美を発見せざること無し。」このように言う子規を写生だけの人とみることは、大きな誤りと言わざるを得ないように思われる。

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