2015-02-08

【石田波郷新人賞落選展を読む】 思慮深い 十二作品のための アクチュアルな十二章 〈第三章〉 田島 健一

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のためのアクチュアルな十二章
〈第三章〉


田島健一




03.水のふくれる音(兼信沙也加)

俳句をつくるひとがいて、俳句を読むひとがいる。この二者の間をつないでいるものは俳句作品には違いないのだろうけれど、実際にそこでやりとりされているものはいったい何だろう。

磨ぎ汁のいつしか透けて花は葉に   兼信沙也加
まばたきの多き役者や桜桃忌


俳句はながい間「イメージの詩」として語られ、いまでも多くの句はそのようなものとして書かれている。ここで言う「イメージ」とは、「視覚的イメージ」であって、いまだに多くの句は作者の撮った写真を読み手がふたたび見るようにして、読まれ、鑑賞されている。

なるほど、この「磨ぎ汁のいつしか透けて」や「まばたきの多き役者」はそのような「イメージ」を確かに読み手に伝えている。けれども真に問題となるのは、それによって作者と読み手が「何をやりとりしているのか」なのである。

黒蜥蜴毛先のいたみ持て余す
夏帽子電車まつすぐ遠ざかる
マネキンのまつげやはらか半夏生


いたみを持て余した毛先も、まっすぐ遠ざかる電車も、やはらかなまつげをもつマネキンも、こうして句に書かれた瞬間に、それはすでにそこに「ある」ものとして読まれる。

けれども、それに先がけて、これらの句がここに「書かれた」という事実が、それが書かれざるを得なかったために、「書いたこと」と「書かれたこと」との間で、書かれた内容以上のものを多かれ少なかれ読み手に感じさせる。

それこそが〈意味〉と呼ばれるものである。

読み手はこの〈意味〉を通して、それを生んだ「主体」をそこに見いだす。作者がどんなに何かのフリをしてみせても、ここで見いだされる「主体」をごまかすことはできない。

仮に作者が別の何者かを演じて見せても、読み手は、その句に含まれる「主体」が生みだした〈意味〉を読みとってしまう。言い換えれば、作者のあらゆる意図を超えて、「主体」は〈意味〉を信じてしまっている。

このとき、ここで句として書かれた内容と、そこに読みとられた「意味」との間に生まれた空間において、読み手の同一化が行われる。つまり「主体」にとってただならぬ〈意味〉は、読み手にとってもただならぬものとして働きかける。俳句を読んだときに発生する感興はこれだ。

気をつけなければならないことは、この〈意味〉と呼んだものは、読み手の感興の「原因」であって「対象」ではないということだ。〈意味〉は、そこに書かれた句の些細な部分に付着し、読み手の視野から消せないシミとして、読み手の視線を釘付けにする。

それ自身は、奇妙でまとまりのない言語化不能な混沌であるにも関わらず、ある種の思想的空間から見た場合にのみ形を成し、それによって読み手自身の「私」を構成する。

青岬水のふくれる音を聞く

「水のふくれる音」という表現は、視覚的イメージとは異なり、かと言って聴覚的イメージとしても、どこか「変な」表現である。それは経験的な音を離れ、それがどんな「音」なのか説明しろと言われても他の言葉で言い換えることが難しい、おぼろげな感覚表現である。

けれども、そのような説明不可能性こそが、この句の核になっており、読み手が出会うのはまさにそれである。

その核とは「水のふくれる音」が、経験的などの音と一致するか、ということではなく、この説明不可能性そのものが直接的に読み手にとって「謎」であり、その奥に何か意味ありげな読みの可能性を感じさせている、という一点において、一部の読み手の視線をとらえて放さないのである。

さて、この読み手にとっての「謎」は、実は作者自身にとっても「謎」であるのだが、では作者はどの場所からそれを見ているというのだろうか。俳句をつくるにあたって「ものを見る」とは、いったいどういうことなのだろうか。

〈第四章〉へつづく

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