2015-03-01

俳句の自然 子規への遡行39 橋本直

俳句の自然 子規への遡行39

橋本 直
初出『若竹』2014年4月号 (一部改変がある)

しばし話題を変える。子規とそれ以後の個人句集についてである。

近代の初期においては、生前に個人句集を出す習慣はなかった、と言うと、現代の俳人には意外と思われるであろうか。

以前述べたように、子規は俳句を文学としたのであり、そうであるならば、個人の作品の発表手段としての個人句集は当然出るべきだろう。たとえば、主な詩集や歌集の出版年は既に明治二十年代前半からはじまっていた。

明治22年 北村透谷  詩集『楚囚之歌』
明治24年  同    詩集『蓬莱曲』
明治29年 与謝野鉄幹 歌集『東西南北』
明治30年 島崎藤村  詩集『若菜集』
明治32年 土井晩翠  詩集『天地有情』
明治34年 与謝野晶子 歌集『みだれ髪』

しかし、句集になると話はそう簡単ではない。生前の個人句集出版は、ようやく明治三十年代後半になってからはじまるのである。出た順に列記すると、

①正岡子規『獺祭書屋俳句帖抄上巻』高濱清編 明三五年
②松瀬靑々『靑々句集 妻木』全四巻 明三七~三九年
③岡本癖三酔『癖三酔句集』明四〇年
④高濱虚子『稿本虚子句集』今村一声編 明四一年
⑤高田蝶衣『蝶衣句集 島舟』中野三允編 明四一年

となっている。

この個人句集における十年以上の他の韻文ジャンルに対する立ち後れの理由については、既に林桂氏が論考「岡本癖三酔小論―個人句集の行方」(「鬣」第二号平成一四年一月)で触れておられる。林氏は、虚子が『癖三酔句集』の序文に書いた一節(後述する)を引き、「これを虚子が本気で書いたのであれば、『一代一家集』の伝統的な考えから自由になれていなかったいとうことになる。」と指摘されている。

虚子の言う「習慣」とは、たとえば蕪村の『新花摘』に「家々の句集を見るに、多く没後に出せるものなり。ひとり五元集のみ現在に出さんとせし也。発句集は出さずともあれなど覚ゆれ。句集出てのち、すべて日来の声譽を減ずるもの也。(傍線引用者)」という物言いが書かれているように、近世以来、生前の個人句集出版はタブー視され、明治期もそのような考え方が根強かったことを言う。

つまり、ここで虚子のこの発言を受けて言えることは、明治の俳人達は、子規をはじめ新派の俳人達といえども、近世以来のこの習慣を墨守しようとしていたということであり、言い換えれば、彼らは、自らの俳句を一冊に纏める行為については、それ以前の俳諧の発句のありようと地続きであって、近代の所産として画期的・革命的なものとは思ってはいなかったということである。

虚子の物言いは、林氏も言うようにどこまで「本気」なのか、あるいは違う意図があるのかを即断できないところがあるけれども、実際に句集の発刊が遅れていることは、重くみなければならないだろう。さらに面白いことに、この明治の初期個人句集群においては、序文においてなぜこの句集を出すのかについての弁解めいた叙述が判で押したように次々と書かれることになるのである。出た順にあげてゆくと、
①「昔から自分の詩集とか歌集とか又は俳句の集とかを選ぶといふ事は非常にむつかしい事になつてをつて志那や日本では自選の集を出版した人は少ない。(中略)よし今日の標準で厳格に句を選んで見たところで来年になつて其を見たらばどんな厭やな感じがするかも知れん。さう思ふと自分の句集を自分が選んで出すなどゝいふ事は到底出来る事ではない。句集を出す事は一生おやめにしたと此の間まださう思ふてゐたのであつた。」(正岡子規自序「獺祭書屋俳句帖を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ」)

②「自家の句を編して世に公にすること古来人の殆ど為さゞる所。一は名利に近くことを鄙しみ。一は嚢底暴露して眼前毀誉の到らんことを怯るゝに因る。我それ般の事は遮莫。唯我句を一冊に集めて我見たき計り。數星霜の拈り捨をこゝに掻き集めたる爪木。今是昨非。況や推敲の徹せざるもの多きをや異時他日なほ幾斧鑿の耻を見るへし。名をつま木と呼ふ見ん人心に副はすは丙丁童子に付せよ。直に寒夜爐中の灰却て草庵去年の醬を覆はさりし事を叱する無ンは幸也。」
(松瀬靑々自序『靑々句集 妻木』「序」)

③「去年の夏であつたか、俳書堂主人から、癖三酔の句集が出ることになつたといふ話を聞いた時、予は鳥渡考へた。今迄の俳句界の習慣が、新體詩や和歌や其他の多くの文學とは違つて、生前にさう輕々しく句集といふものを出さぬ事になつて居る獺祭書屋俳句帖抄も、子規の病が餘程重くなつて後に病床の慰籍として作つたといふ位に過ぎぬ、其後靑々が、妻木を出した時にも兎角の世評があつた様な次第である。生前に句集を出版するに就ての可否論となれば其處に種々の異つた議論が成立する、併し其議論は一切取除けて單に俳句会の習慣から見て癖三酔句集を出すといふことは鳥渡目立つた事柄である。癖三酔は靑々に比ぶれば未だ年もよけいに若い前途多望の俳人だ其れが句集出版といふやうな、些細な事柄の為めに世間から誤解を招くやうな事があつては、癖三酔の為に不利益なことゝ考へたから、余は無遠慮ながらも癖三酔に手紙をやつて句集出版だけは暫く見合したらどふかと云つてやつた」(高浜虚子「癖三酔句集序」)

(この稿続く)

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