2015-03-29

成分表64 泡 上田信治

成分表64  


上田信治

「里」2011年10月号より改稿転載


新入社員として配属された宣伝部は、二十代の男三人女一人の上に管理職三人という人員構成で、幸い、若い四人はとても気が合っていたので、急ぎの仕事がない時は、必ず誰かが冗談話をしかけてくるという、教室か部室の延長のような職場だった。

ある時、冗談が冗談を呼び、息が苦しくなる程みんなで笑ったあと、先輩のオイカワさん(テニスボーイ)が、目尻の涙をぬぐいながら「こういう時、生きてて良かった、って思わない?」と言ったのだ。

オイカワさんの発言は突然の告白のようだった。自分は、とっさにそれを受けとめてうまく反応するということができず、「えー」とかそんな曖昧な返事をしてしまった。

その言葉はほんとうに唐突だったし、何より、それじゃあ人生への期待値が低すぎると思えたのだ。オイカワさんの生きてて良かったって、そんな程度でいいんですか──と、そんなことを思ってしまうのが、いわゆるバブルの時代の若者というものだった。

そして月日は流れたのだけど、あの時のオイカワさんは圧倒的に正しかった。本当にそう思う。

この間、球場でプロ野球の試合を観ていたら、乳飲み子を抱いたお父さんが前の席に座った。

お父さんはグラウンドを見ていて、抱かれている赤子は、父親の肩越しに我々をじっと見ている。見られているので、サービスとして、応援のドンドンドンという鳴り物のリズムにあわせて、繰り返し面白い顔をしてやった。赤ん坊も理解して乗ってきて、音に合わせ体をゆすりはじめた。時々すごく笑う。お父さんは何も気づいていない。

こういう時、赤ん坊の頭の中では、なにか小さな泡のようなものがピチパチピチパチとはじけているのだろう。球場で、自分たちはその気泡のざわめきを分け与えられていた。

そしてたぶん、あの時宣伝部員だった自分たちも、その泡のようなものを思いっきりはじけさせていた。それは、人生にいつもあるとは限らないものだ。

テレビを見ていたら、ある年のNFLで劇的な優勝を遂げたチームのドキュメンタリーをやっていた。

老齢に達したかつての名選手たちは、優勝パーティのシャンパンファイトのことを「あんな最高の経験は、人生に、後にも先にもない」と口を揃えて言っていて、それは本当にそうなのだろうと思った。それは、きっと、例の泡のすごいやつのことだろう。

その次の朝早く、ある巨漢のベテラン選手が、余韻を味わいたくて一人できのうの祝賀会の場所に行ってみたのだけれど「そこには、もう、何一つ残っていなかった」のだそうだ。

  はらつぱに子らゐずなりて鰯雲  成瀬正俊

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