2015-05-24

【石田波郷新人賞落選展を読む】
思慮深い十二作品のための
アクチュアルな十二章
〈11〉ことばの向こうの世界があってもなくても


田島健一



11.無声映画B(平岩壮悟)

言うまでもなく俳句は「ことば」だ。だとしたら、その「ことば」でできた俳句が指し示している「実体」はどこにあるのだろうか。

いわゆる「写生」は、つまり「対象」を見て書くことで俳句を「対象」に結び付けるのだが、では俳句はすべて「対象」に還元することが可能だと言えるだろうか。

仮に、俳句が「対象」に還元することができるとしたら、俳句の向こう側に、俳句が「対象」とするもう一枚の世界が存在していて、しかもその世界は俳句を(その世界を見つめる主体の視線そのものを)含んでいない、ということになる。

俳句は、そのような主体が生きる必要のないユートピアを前提とした表現だと考えてよいのだろうか。

蟇無声映画の字幕濃し 平岩壮悟

無声映画で表示される字幕は、そこで映し出される映像に「あるはず」の声を代替する。

仮に何かの問題が生じ、画面に字幕が表示されなければ、おそらく観客は騒ぎ出すだろう。なぜなら、そこに「あるはず」の声を聴くことができないからだ。それは、観客たちにとって、字幕は「あってもなくても」、物語を表現する〈声〉は存在している(はずだ)からに他ならない。ところが、問題が明らかになるのは、そこに用意されていたのとは別の字幕が流れ出した場合である。そこには従来とは別のやりとりが生じ、映し出された映像は別の意味を表現し、全く別の物語が展開する。このとき「あるはず」だった〈声〉は解体し、そこで流れた字幕は予定されていたのとは全く別の〈声〉をもたらす。

つまり、時間の流れが逆だということだ。

〈声〉は「あってもなくても」、字幕は存在する。むしろ、字幕こそが〈声〉の存在を裏付けている。つまり、字幕は声を代補する。

着ぶくれやエンドロールで眠りだす

明治期以後、俳句は多かれ少なかれ「イメージの詩」として発展してきた。

書かれた句の向こうには何かしらのイメージを生成する実体があって、そこには定められた詩的物語がある、と。

場合によっては、十全たる俳句は、十全たるイメージだと考えている人もいる。俳句の「鑑賞」は、そのような十全たるイメージの「解釈」として理解され、そこに書かれた句は、別の言葉で語り直される。それはまるで既に物語を終えた映画のエンドロールを見るように、読み手は俳句の「事後」に立ち会わされる。

そこでは、俳句の味わいはイメージの「事後」に生みだされる「余韻」、「余情」だと信じられている。それは間違いではないが、それによって俳句は常に「事後」の詩として、常に現実から遅れている。

子がひやくを数へきる銀河ができる

けれども、そのような「イメージの詩」としての発展の隙間で、それをすり抜けるようにして俳句には「語りつくせないものがある」ことは知られていて、静かに語り継がれている。

俳句のアクチュアリティとは、ことばの代補性に基づく、イメージ化の仕損じ、伝達性の過誤、全体性をすり抜ける罅割れのようなものである。

いわば、それは映画の予告編のように、イメージの完成を逃れつつ、常に何かを「保留」し続ける。もはや、本編が定かでなくなるほど、それは意味の「仮説」として、表現ではなく指標として、世界を「予告」する。

このとき、予告編としての「俳句」にとって、本編としての世界は「あってもなくても」なのである。

映画の予告編が、時折、本編よりも「面白い」ことがあるように、俳句の「面白さ」とは、継続する「面白そう」に他ならない。「面白さ」そのものが「保留」され続ける、ということが、俳句の「面白さ」そのものであるということ─それは、つねに「予告編」だと考えられているものが、実は「本編」そのものである、ということを示している。

言い換えれば、「書かれた俳句」が示そうとしているものは、その句の向こう側に「もう一枚の世界」としてあるのではなく、そこに「書かれた俳句」の表層に「ことばとして」書き込まれているのである。書かれたことが、書こうとしたもの「そのもの」であるということ─この再帰的な構造が、俳句がもつ最も個別的な構造で、そこで「意味」が出来事として生成される画期的な仕組みなのだ。

〈第十二章〉へつづく

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