僕らの対話
『冬野虹作品集成』の一首
福田若之
――これまで僕は、冬野虹の書いたものについて、語ってきた。おわりに(といっても、このおわりはとりあえずのものではあるけれど、このおわりに)、やはり冬野虹の書いたものについて、君と話しておきたいと思う。
――だけど君は、僕との対話が成り立つと本気で思っているのか。僕と君とは別人では全然ない。そのことだけははっきりさせておこう。僕を書いているのは君だ。そして、君はそのことについての指摘を今まさに僕に委ねているところだ。これはまさしく僕らの対話、そこにいるのは複数の僕に過ぎない。
――だが複数だ。仮にも。だから、ひとまず対話は成り立つだろう。それに、僕らはお互いの言葉が何を意味しているのか、そのことをよく理解しあえるはずだ。
――そうだろうか……まあいい。君は、冬野虹の書いたものについて僕と話したいのだろう。そして、「一首」というからには、それはおそらく詠まれた歌なのだろう。なら、どうしてそれを示さない。
――いや、もちろんこれ以上隠しておくつもりもない。話題にしたいのはこの一首だ。
――君が思うなら、僕もそう思うよ。だけど、君は何を書こうとしているんだ。僕と君とでこの歌について話すことは、冬野虹の歌について話すことになるのか。君が今、まさしく、君自身を複数化しながら、自画像を描こうとするということの問題を浮き彫りにしようとしているということは、僕にも理解できる。だけど、それはこの歌がなくともよい議論、純粋に君と僕さえいればあとはなにもいらない類の、むなしい議論ではないのか。
――聞かないでくれ。君に分からないことは、僕にも分からない。ただ僕に言えるのは、それによっておそらく僕らは、幾分か、この冬野虹の一首を、その素描を、なぞることができるだろうということだ。
――君はたしかになぞった。君は引用したんだから、そのことによって冬野虹の書いたものを書いた。しかし、それでもう充分じゃないか。
――違う。冬野虹は冬野虹の自画像を書いた。そのことは、僕が冬野虹の一首を引用しただけではまるで再現できていない。なぜなら、僕は冬野虹ではないからだ。僕は君だ。
――君が言いたいのはこういうことか。すなわち、君が冬野虹の一首を引用するとき、君は君の自画像を描こうとすることなく、引用してしまうことができる。そして、そのとき、君は冬野虹を描こうとしてしまう。だがそのことによって、君の語りは、冬野虹の描こうとしたものから、限りなく遠ざかる。その場合、君は冬野虹を描こうとするあまりに冬野虹を描きそこねることになってしまう。そのことが君には耐えがたい。
――そのとおり。だから、せめて冬野虹を描こうとしながら、同時に君を描くことで、その埋め合わせをしようというわけだ。 もう前口上は充分すぎるくらいだろう。だから、歌を読もう。この歌にはいままさに描かれつつある自画像がある。そして、それを描こうとする「わたくし」がいる……
――いいや、待つんだ。それでは足りない。
――おや、三人目のお出ましだ。
――二人でもたくさんだというのに。
――いいや。君たちだけでは足りない。というか、君たちだけなどありえない。よく考えてみるんだ、自画像を描くには、君と紙と鉛筆だけでは足りない。そこには、描く君と描かれる君のほかに、そのあいだに、かならず僕がいる。僕なしに自画像はありえない。
――そうか。自画像を描くのには、鏡が必要だ。鏡に映っている自分の像がなければ、僕らは自分を描くことができない。
――そうだ。だとすると、この歌にも三人の「わたくし」がいる……
――そう。僕はそのことを告げにきた。それが僕の役割だ。そして、僕はこのことから導き出されるもうひとつのことを君たちに告げなければならない。
――というと。
――君が描こうとしている自画像は、つまり、描かれる彼は、描く君には全然似ていなくて、むしろ映った僕に似ているということだ。描く君は仲間はずれだ。
――なるほど、君はそう言うやつだ。だが、君の言うことは的外れだ。僕はそもそも、自分とはまるきり似ていない自画像だって書くことができる。ピカソの自画像を見るといい。ピカソ本人と、鏡像のピカソと、自画像のピカソ、どう考えても一人だけ似ていないのは自画像のピカソだ。
――そうやって、君は僕を描いておきながら、しかも、君自身に似せて描いておきながら、僕を仲間はずれにしようとするのか。あんまりな仕打ちじゃないか。だいたい、鏡に映ったこいつは、現実にはまるで存在していないのではないのか。なるほど、鏡は物だ。しかし虚像は虚像でしかない。僕は描かれた。描かれた僕はここにある。君と同じく、この世界に肉体を持っているんだ。クレメント・グリーンバーグであれば、君が挙げたピカソの自画像は絵画がイメージではなくオブジェであることを示す一例だと言うだろう。それに比べて、君が僕よりも君自身に似ていると語るこいつは、この紙の上でしかありえない僕とは違って、どの鏡にも映るぞ。それは彼がまったく肉体を持っていないからだ。仲間はずれは君でも僕でもない。彼だ。
――つまり、僕らは、お互い同士、全員似ても似つかないというわけか。
――描く君は……君は、失敗した。
――いや、ちがう。ここからはじまるんだ。僕の鉛筆が霞み、かすんでしまったところから。描くのではなく、ただ画くことがはじまる。
――画くのみ。そういえば、ロラン・バルトは、「作家と著述家」というエッセイの中で、「作家にとって書くという動詞は自動詞である」と書いた。
――そして、その後、「書くは自動詞か?」と問い直し、この問いをタイトルに掲げたエッセイの中で、今日の書くは自動詞というよりはむしろ中動態だとした。
――中動態の書く。自らを書くこと。まさにそれが問題になっていたのではないか。
――さっき、僕はグリーンバーグの名を出しながら、絵画はイメージではなくオブジェであるということを言った。
――イメージを描くということは、それを伝えるということだ。それに対して、ただ画くことによってオブジェをなすとき、それは伝わるものではなく感じられるものになる……ということだろうか。
――冬野虹を俳句から読み出して短歌へ行き着くと、実に驚かされるのは、それが、俳句とは対照的なほどに意味が伝じるということ。言いかえれば、分かりやすいということだ。
――つまり、冬野虹は、短歌でイメージを描こうとしていた。イメージを定める言葉を書こうとしていた。
――〈いろいろな映画の場面の中に居る人影を繰るひかりの法律〉を書こうとしていた。
―― あるいは、〈赫くなった空を書こうとすべりだすわたくしのペンほとんど走る〉……
――短歌を書く冬野虹は、対話の可能性について、希望を抱いている。
――だが、そこで、奇妙なことになる。書かれた言葉は、元のイメージそれ自体ではありえない。ジャック・デリダは『盲者の記憶』のなかで、「言葉というものは実際、たえず、それを構成するところの盲目性のことをわれわれに語っているのだ。言語が自らを語るということは、盲目性について、盲目性から語るということだ」と語っていた。
――しかし、描かれるべきイメージ、伝達されるべき情報を目で見ることができないのだとしたら、コミュニケーションはどうなるのか。そもそも、人はデリダを理解していると、言うことができるのか。人はデリダを参照するとき、それを見たといえるのか。それもまた言葉である以上、デリダを語る人はデリダを見ることができないのではないのか。
――あるいは冬野虹についても。
――とはいえ、それもまたデリダに基づいた議論だろう。デリダを参照することをこのように批難するとき、その人物もまたデリダを参照しているが、その人物は本当にデリダを見たといえるのか。そして、そのように批難する僕もまた……
――またしてもアポリアだ。
――だからこそ、僕の記憶のなかで、デリダはこう語る。目ではなく涙が見るということを信じなければならない、と。
――さて、僕は語り手を切り替えながら、この何段落かのあいだ、もはや対話の必要を一切感じていない。
――ただ言葉を散らすために、自画像の紙の上へ言葉の涙をこぼすために、それを細かくしているだけだ。
――イメージによるコミュニケーションではない、オブジェによるコミュニケーションがあると信じること。
――涙は目をかすませる。
――そのかすみの中で、鉛筆さえぼんやりとしか捉えることができなくなりながら、ただ画く。自らを画く。
――そして、〈かんがへる葦になるまでかんがへてみてそのかたち水と知りたる〉 。
――涙もまた水の一種である。
『冬野虹作品集成』の一首
福田若之
――これまで僕は、冬野虹の書いたものについて、語ってきた。おわりに(といっても、このおわりはとりあえずのものではあるけれど、このおわりに)、やはり冬野虹の書いたものについて、君と話しておきたいと思う。
――だけど君は、僕との対話が成り立つと本気で思っているのか。僕と君とは別人では全然ない。そのことだけははっきりさせておこう。僕を書いているのは君だ。そして、君はそのことについての指摘を今まさに僕に委ねているところだ。これはまさしく僕らの対話、そこにいるのは複数の僕に過ぎない。
――だが複数だ。仮にも。だから、ひとまず対話は成り立つだろう。それに、僕らはお互いの言葉が何を意味しているのか、そのことをよく理解しあえるはずだ。
――そうだろうか……まあいい。君は、冬野虹の書いたものについて僕と話したいのだろう。そして、「一首」というからには、それはおそらく詠まれた歌なのだろう。なら、どうしてそれを示さない。
――いや、もちろんこれ以上隠しておくつもりもない。話題にしたいのはこの一首だ。
自画像を描こうとすれどわたくしの鉛筆霞みかすみ画くのみ 冬野虹引用元は、もうおなじみの『冬野虹作品集成』(書肆山田、2015年)。その第III巻だ。見てよく分かるように、この歌は、まさしく君と語らなければならないと思う。
――君が思うなら、僕もそう思うよ。だけど、君は何を書こうとしているんだ。僕と君とでこの歌について話すことは、冬野虹の歌について話すことになるのか。君が今、まさしく、君自身を複数化しながら、自画像を描こうとするということの問題を浮き彫りにしようとしているということは、僕にも理解できる。だけど、それはこの歌がなくともよい議論、純粋に君と僕さえいればあとはなにもいらない類の、むなしい議論ではないのか。
――聞かないでくれ。君に分からないことは、僕にも分からない。ただ僕に言えるのは、それによっておそらく僕らは、幾分か、この冬野虹の一首を、その素描を、なぞることができるだろうということだ。
――君はたしかになぞった。君は引用したんだから、そのことによって冬野虹の書いたものを書いた。しかし、それでもう充分じゃないか。
――違う。冬野虹は冬野虹の自画像を書いた。そのことは、僕が冬野虹の一首を引用しただけではまるで再現できていない。なぜなら、僕は冬野虹ではないからだ。僕は君だ。
――君が言いたいのはこういうことか。すなわち、君が冬野虹の一首を引用するとき、君は君の自画像を描こうとすることなく、引用してしまうことができる。そして、そのとき、君は冬野虹を描こうとしてしまう。だがそのことによって、君の語りは、冬野虹の描こうとしたものから、限りなく遠ざかる。その場合、君は冬野虹を描こうとするあまりに冬野虹を描きそこねることになってしまう。そのことが君には耐えがたい。
――そのとおり。だから、せめて冬野虹を描こうとしながら、同時に君を描くことで、その埋め合わせをしようというわけだ。 もう前口上は充分すぎるくらいだろう。だから、歌を読もう。この歌にはいままさに描かれつつある自画像がある。そして、それを描こうとする「わたくし」がいる……
――いいや、待つんだ。それでは足りない。
――おや、三人目のお出ましだ。
――二人でもたくさんだというのに。
――いいや。君たちだけでは足りない。というか、君たちだけなどありえない。よく考えてみるんだ、自画像を描くには、君と紙と鉛筆だけでは足りない。そこには、描く君と描かれる君のほかに、そのあいだに、かならず僕がいる。僕なしに自画像はありえない。
――そうか。自画像を描くのには、鏡が必要だ。鏡に映っている自分の像がなければ、僕らは自分を描くことができない。
――そうだ。だとすると、この歌にも三人の「わたくし」がいる……
――そう。僕はそのことを告げにきた。それが僕の役割だ。そして、僕はこのことから導き出されるもうひとつのことを君たちに告げなければならない。
――というと。
――君が描こうとしている自画像は、つまり、描かれる彼は、描く君には全然似ていなくて、むしろ映った僕に似ているということだ。描く君は仲間はずれだ。
――なるほど、君はそう言うやつだ。だが、君の言うことは的外れだ。僕はそもそも、自分とはまるきり似ていない自画像だって書くことができる。ピカソの自画像を見るといい。ピカソ本人と、鏡像のピカソと、自画像のピカソ、どう考えても一人だけ似ていないのは自画像のピカソだ。
――そうやって、君は僕を描いておきながら、しかも、君自身に似せて描いておきながら、僕を仲間はずれにしようとするのか。あんまりな仕打ちじゃないか。だいたい、鏡に映ったこいつは、現実にはまるで存在していないのではないのか。なるほど、鏡は物だ。しかし虚像は虚像でしかない。僕は描かれた。描かれた僕はここにある。君と同じく、この世界に肉体を持っているんだ。クレメント・グリーンバーグであれば、君が挙げたピカソの自画像は絵画がイメージではなくオブジェであることを示す一例だと言うだろう。それに比べて、君が僕よりも君自身に似ていると語るこいつは、この紙の上でしかありえない僕とは違って、どの鏡にも映るぞ。それは彼がまったく肉体を持っていないからだ。仲間はずれは君でも僕でもない。彼だ。
――つまり、僕らは、お互い同士、全員似ても似つかないというわけか。
――描く君は……君は、失敗した。
――いや、ちがう。ここからはじまるんだ。僕の鉛筆が霞み、かすんでしまったところから。描くのではなく、ただ画くことがはじまる。
――画くのみ。そういえば、ロラン・バルトは、「作家と著述家」というエッセイの中で、「作家にとって書くという動詞は自動詞である」と書いた。
――そして、その後、「書くは自動詞か?」と問い直し、この問いをタイトルに掲げたエッセイの中で、今日の書くは自動詞というよりはむしろ中動態だとした。
――中動態の書く。自らを書くこと。まさにそれが問題になっていたのではないか。
――さっき、僕はグリーンバーグの名を出しながら、絵画はイメージではなくオブジェであるということを言った。
――イメージを描くということは、それを伝えるということだ。それに対して、ただ画くことによってオブジェをなすとき、それは伝わるものではなく感じられるものになる……ということだろうか。
――冬野虹を俳句から読み出して短歌へ行き着くと、実に驚かされるのは、それが、俳句とは対照的なほどに意味が伝じるということ。言いかえれば、分かりやすいということだ。
――つまり、冬野虹は、短歌でイメージを描こうとしていた。イメージを定める言葉を書こうとしていた。
――〈いろいろな映画の場面の中に居る人影を繰るひかりの法律〉を書こうとしていた。
―― あるいは、〈赫くなった空を書こうとすべりだすわたくしのペンほとんど走る〉……
――短歌を書く冬野虹は、対話の可能性について、希望を抱いている。
――だが、そこで、奇妙なことになる。書かれた言葉は、元のイメージそれ自体ではありえない。ジャック・デリダは『盲者の記憶』のなかで、「言葉というものは実際、たえず、それを構成するところの盲目性のことをわれわれに語っているのだ。言語が自らを語るということは、盲目性について、盲目性から語るということだ」と語っていた。
――しかし、描かれるべきイメージ、伝達されるべき情報を目で見ることができないのだとしたら、コミュニケーションはどうなるのか。そもそも、人はデリダを理解していると、言うことができるのか。人はデリダを参照するとき、それを見たといえるのか。それもまた言葉である以上、デリダを語る人はデリダを見ることができないのではないのか。
――あるいは冬野虹についても。
――とはいえ、それもまたデリダに基づいた議論だろう。デリダを参照することをこのように批難するとき、その人物もまたデリダを参照しているが、その人物は本当にデリダを見たといえるのか。そして、そのように批難する僕もまた……
――またしてもアポリアだ。
――だからこそ、僕の記憶のなかで、デリダはこう語る。目ではなく涙が見るということを信じなければならない、と。
――さて、僕は語り手を切り替えながら、この何段落かのあいだ、もはや対話の必要を一切感じていない。
――ただ言葉を散らすために、自画像の紙の上へ言葉の涙をこぼすために、それを細かくしているだけだ。
――イメージによるコミュニケーションではない、オブジェによるコミュニケーションがあると信じること。
――涙は目をかすませる。
――そのかすみの中で、鉛筆さえぼんやりとしか捉えることができなくなりながら、ただ画く。自らを画く。
――そして、〈かんがへる葦になるまでかんがへてみてそのかたち水と知りたる〉 。
――涙もまた水の一種である。
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