2015-06-21

【俳誌を読む】男の子のつくりかた 『オルガン』創刊号を読む(3)

【俳誌を読む
男の子のつくりかた
『オルガン』創刊号を読む(3)

小津夜景


鴇田智哉の俳句については去年から今年にかけてしつこいくらい書いた。その理由はわたしが目の前の対象を完全に裸にしてみたい人だからというのがまずあるが、思い返してみるとそればかりでなく、鴇田という人があまりにも一貫性のある視座において作句していることに唸ってしまったから、というのが大きい。

今回の『オルガン』の連作もまた、従来の方法が至る所で踏襲されている、と思った。とはいえ初めて気づいたことも幾つかあって、それについてあれこれ想像するのはとても楽しい。たとえばこんな句。

  さみだれを集めをとこの子をつくる

芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」が下敷きとされたこの句は、①線状性(雨の糸)、②半透明性(雨の景)、③子供(男の子)といった鴇田作品に頻出する三つの要素からできている。

鴇田の子供の扱い方にはつねに或る一定のパターンがある。どういったパターンかというと、この人は具象と抽象、可視性と不可視性、存在と非在、生と死といったものの中間に位置する〈不安定な存在の気配〉として子供を捉えるのが好きらしいのだ。

  いちじくを食べた子供の匂ひとか
  からすうりの花に子供のゐてしまふ
  おぼろなる襞が子供のかほへ入る

これらは以前に書いた書評*1でも言及した作品で、最初の句は、いちじくを体内に吸収した子供が匂いのヴェールを纏っている状態。次の句は、からすうりのヴェールに子供が存在してしまう状況(書かれてあるままですね)。最後の句は、ほのぐらい光のヴェールが子供の顔に入ってゆく光景。いずれにおいても、子供がディアファネース(半透明性)の皮膜・肉襞の中に〈挿入〉され、それと〈一体化〉する、といった構造があからさまで、かつこの構造における子供たちは〈通俗的記号としての子供〉とは全く別の、まるでここにいながらにしていないような〈幽明的なイメージ〉にひっそりと包まれている。

そういえば鴇田には「とほくから子供が風邪をつれてきぬ」なんて句もあるが、これには「子供は風の子」といったつまらないことわざを思い出さずにはいられなくて「なにゆえこの句が収録されたのか?」と感じたりもする。だが一方でこうした感じ方が作品の表層に捉われすぎていることは認める他なく、というのもこの句が「風邪のウイルスを体内に吸収した子供が、熱のヴェールを纏って帰ってきた」という定石構造を秘めている以上、鴇田自身はこの句に強烈な快感と確信とを抱いているにちがいないからである。

閑話休題。

今回の新作「さみだれを集めをとこの子をつくる」には、水のヴェールで子供を創造した、と書かれている。わたしはこれを読んだ時、鴇田の子供がディアファネースへの〈挿入〉ないしそれとの〈一体化〉からさらに一歩進んで、それ自体から〈産出〉されるに至ったことを知り、あっと驚くような気持ちになった。

〈まだそれならざるものの種子〉としての「さみだれ」が集められ、いつしか〈それ〉としての「子」に発展してゆくようす。よくよく考えてみれば、ディアファネースというのが実はひとつのデュナミス(可能態)であるというのは、鴇田作品において当然予想されうる事柄だったのだ。但しそのことがはっきりと現れた句というのは存外少なかったと思う。この意味において、掲句は今後の鴇田作品の展開のひとつを暗示するとてつもなく重要な作品とみなせるかも知れない。



【註】
*1小津夜景「生きながら永眠する日、それから」

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