2015-07-26

自由律俳句を読む 103 「又吉直樹」を読む 畠働猫

自由律俳句を読む 103
「又吉直樹」を読む〔1〕

畠 働猫


<略歴>
又吉 直樹(またよし なおき、1980-)
タレント、脚本家、小説家。大阪府出身。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。
自由律俳句集(せきしろとの共著)
『カキフライが無いなら来なかった』(2007)
『まさかジープで来るとは』(2010)
堀本裕樹とともに「すばる」で「ササる俳句 笑う俳句」を連載。
2015年、初の中編小説「火花」を『文學界』に発表。
7月に同作で芥川賞受賞。



私ごとになるが、30歳前後を境に文学的なものから遠ざかっていた時期があった。書くべき主題の枯渇や喪失感を抱えながらもどうにか折り合いをつけながら生きているうちに、少しずつそのひりひりするような焦燥感は薄れてゆき、心穏やかに過ごせるようになった。「文学」というものが自分の中で役割を終えたのであろうと割り切れるようになった、とも言える。
そのような状況での2011年から2012年にかけてのことだったと思う。
書店で『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』の2冊に出会った。
この2冊は、私に自由律俳句という表現方法があることを思い出させてくれたものであり、もう一度「文学」というものに目を向けるきっかけになってくれたものでもある。

ピースの又吉と言えば、その場で飛び跳ねながら、「僕はおそらく、殺されるだろう」と独白するギャグが秀逸である。壮大な物語の冒頭を感じさせるものであり、私たちはそこに様々な背景を思い描くことができる。語らずに語る。俳句的と言えなくもないのではないか。
独特の一貫した世界観を持ち、またその表出の仕方を模索し続けている人物であるように思う。
自由律俳句は彼にとってその模索の過程にあったものではないか。

改めてその句集を読み返してみたが、思ったよりもとれる句が少ない。いかに才能があろうと、このときはまだ初心者なのだ。そのように感じる。
手探りの表現、知性ゆえの器用さが出てしまっている句、説明に過ぎる句など稚拙に感じてしまう句も多い。その中でも、秀句と思えるもの、作者の世界観を思わせるものを第一句集『カキフライがないなら来なかった』から10句選んでみた。



心中を断られて泣いた  又吉直樹

愛を試した結果への悲しみか。それとも太宰になり切れぬ哀しさであったか。

昔住んでた家の前を通る誰かがまだ起きている  同

多くの人が経験したことのあるような景である。どうして寂しい気持ちになるのだろう。かつての団欒を思うからであろうか。それとも自分たちの生活の場が他者に奪われたような喪失感なのだろうか。

高架下歩く自分の足音を聴く
  同

「聴く」という表現から、神経を足音に集中していることがわかる。
ともすれば不安定で曖昧になりがちな自己の存在を確かめるかのように、自分の足音に耳を澄ます。
地域にもよるのだろうが、一般的に高架下において不安の対象になるのは他者の足音ではないだろうか。特に治安の悪い地域ではそうだろう。
しかし、他者ではなく自分自身に対して不安を覚えてしまう点に作者の傾向があるように思う。

大家を睨み返した  同

状況はよくわからないが、思わず笑ってしまう。上記の「僕はおそらく、殺されるだろう」同様に、その状況に至る背景まで読む側が想像することになる。こうした句では、読者は何らかの説明を考え合理化を試みるのだが、それが簡単にはできないほど、面白さは増す。この句はその成功例と言える。

似顔絵を見ると嫌われていたことが解る
  同

この句は語り過ぎであるように思う。言い尽してしまっている。「解る」という表記にも固さがある。句としてはよくない。しかし「自己存在への不安」という作者の傾向が表れた句として取り上げてみた。

魚眼レンズを覗いたら冬だった  同

美しい景である。ただ新鮮な表現ではない。何かをフィルターにすることでかえって見えてくるものがある、というのは主題としても詠まれつくされているように思う。なぜ魚眼レンズなのか、というところにおかしみを読むべきか。芸人風に言うならばつっこみどころということか。

沈黙の次は誰の番か  同

良くまとまっており、解釈の幅のある佳句と思う。
「番」を何の順番ととるかで、句の印象は大きく変わるだろう。
会話が途切れて、誰かが話し出すのを待っている景ととれば、純情さや若さゆえの不器用さを思い、微笑ましい。
ただ、この「沈黙」を固唾を飲んでいる様子ととれば、順番は殺される順番、危害を加えられる順番ととることもできよう。「僕はおそらく、殺されるだろう」と同じ世界観、同じ物語中の句とも読める。

空車タクシーの連なりが獣みたい  同

直喩表現がこなれていない感があり新鮮だ。
とても素直に目の前の景を詠んだ句なのであろう。
空車のタクシーは空腹の獣のように見えたのであろうか。空車と光る文字も赤くて禍々しい。おそらくは繁華街からの帰りであり、これからその獣の一匹に飲み込まれるのだろう。ここでの比喩には、世界が自分を傷つけるものであると捉える繊細さが見えるように思う。

蛇口だけ残る空き地に何かが咲いている  同

佳句と思う。無常観のようでもある。また、「何かが」という点には、興味の対象が花ではなく蛇口に向いていることが読み取れる。失われた物への関心、滅びの美学を詠んでいるようでもある。

せえので潜った耳鳴りがした  同

今回取り上げた中では最も美しい句と思う。
郷愁。少年時代への憧憬。
そういった甘い記憶が集約されているような句である。
作者の世界観がただ陰鬱なものであれば、それは何の魅力も持たないだろう。
しかしそこには、暗さだけではなくこうした輝きが確かに存在し、至るところで見え隠れするのである。
それは見事なコントラストを生み、結果としてより深い闇とより強い光を投げかけてくるのである。



以上10句は、『カキフライが無いなら来なかった』(2007)より。

次回の予定は、「松尾あつゆき」〔1〕を読む。

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