2015-07-26

俳句にとってあなたとは何か 福田若之



俳句にとってあなたとは何か

福田若之


火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ    能村登四郎
愛されずして沖遠く泳ぐなり          
藤田湘子
玫瑰や今も沖には未来あり   
       中村草田男
 
こうして、今、あなたはこれらの句をひとまず読み終えたところだ。「あなた」というのは、まず第一に、今、俳句にとってあなたとは何かをここに読みつつあるあなたである。だが、あなたは、「あなた」というこの言葉が古くは時空の彼方を指し示すものでもあったことを知っている。「あなた」という言葉が、その古い用法において、過去の方を指し示し、未来の方を指し示し、空間的な遠くを指し示していたこと、それをあなたは知っている。すなわち、あなたはいま、「あなた」という語が過去のあなたにおいて様々に使われていたことを知っている。
 


それゆえ、「あなた」という言葉をこれから繰り返し読むことになるあなたは、そのたびに、この文章の全体が、これらすべての意味合いにおいて、あなたに向かって書かれているのだということを理解するだろう。すなわち、この文章は、この文章自体から見た過去――あなた――のある時にここからは遠い場所――あなた――で書かれた沖――あなた――についての三つの句に向かって書かれていると同時に、この文章から見た未来――あなた――のある時に、ここからは遠い場所――あなた――でこれを読むあなたに向かって、書かれているのだということ。あなたは、そのことを理解するだろう。そして、あなたはそのとき、登四郎や草田男や湘子もまた、それぞれの時と場所において、まぎれもないあなたへ向かって彼らの言葉を書いたのではなかっただろうかと、考える。

あなたは今、こんなふうにして、この文章が、登四郎や草田男や湘子の句について語りながら、まさしく俳句にとってのあなたを主題とするだろうということを目の当たりにしている。だから、あなたはこの文章を読みながら、この三句を、少なくとも一度は読み返すことになるだろう。あなたは、ひとまず、登四郎の句から読み返すことになる。

語り手が火を焚いている。そのとき、枯野の沖を誰かが通り過ぎる。

あなたは、この句の「沖」という言葉を、枯野のあなたの隠喩として読んだはずだ。すると、あなたはすでに、「沖」はある海域ではなく、空間的に遠い場所、すなわち、あなたを指し示していることに気づいていることになる。登四郎のほかならぬこの隠喩が、沖とはすなわちあなたのことだという考えをあなたにもたらしたのだった。

この句の語り手は火を焚いている。火を焚けば煙が立つ。その火と煙を、おそらく、枯野の沖を通り過ぎる誰かがきっと見るだろう。だが、語り手の心身を温めるその熱は、あの遠いあなたにいる誰かに届くことはない。届くのは、目で見えるものだけだ。

それでも、語り手は火を焚いている。枯野の沖を通り過ぎる誰かが、その火を見た人が、火の記憶が発する熱を自身の心のうちに思い起こすことを願いながら。

語り手にはその誰かがいったい誰なのかはっきり分かってはいない。読み手であるあなたにも、それが誰なのか、まだ、はっきりしていない。枯野の沖を通り過ぎていく人の顔までは見えない。その誰かは、遠くから火を見ることしかできず、そのまま別のほうへ歩いていくほかはないような誰かである

寒々しい枯野の広がりを隔てて、ただ火と煙だけが火を焚く語り手と遠くあなたを過ぎ去る誰かとをつないでいる。あなたは、この頼りなく儚いつながりを、過去のはるかあなたにいる語り手と一緒になりながら、あたかも語り手のこなたにいるようにして、感じる。

するとあなたは、この誰かが誰なのか、語り手がけっして問いかけていないということに気づく。「誰か過ぐ」は「誰か過ぐる」ではないからだ。誰が通り過ぎるのか、と問われることなく、この誰かは通り過ぎる。この誰かは、こうして、語り手によって句に迎え入れられている。

ところで、登四郎から見た読み手のあなたは、充分すぎるほど、あなたである。というのも、あなたは、時間としては登四郎の未来において、場所としては登四郎の遠くにおいて、登四郎の句を見、それによっていままさに登四郎に語りかけられている二人称のあなただからだ。あなたは、登四郎にとってのあなたであり、登四郎から見て枯野のあなたにいるのである。

だから、あなたは気づく。登四郎の枯野の遠くあなたを通り過ぎていくのは、他ならぬあなただったのだということに。だからこそ、語り手は、それが誰なのか、あなたには問いかけなかったのだということに。あなたは、問いに答えてもらうには語り手から見てあまりにも遠かったのだ。あなたは、あまりにも、あなただったのだ。

句のなかで語り手と誰かを火が結んでいるありようが、登四郎とあなたをこの句が結んでいるありようを体現している。こうして、今、あなたは枯野の沖に迎え入れられている。登四郎の句は、すなわち、このひとつの言葉の火は、あなたから見て遠くあなたに眺められている。あなたには、その火が見えているはずだ。

たしかに、登四郎の焚くこの火の発する熱をあなたが直接に感じとることはないかもしれない。それでも、火がなにかをあなたの心に呼び起こしているのをあなたは現に感じているはずだ。あなたの心に、あなたが登四郎の句を読むことで生じたなにかがあるはずだ。あなたはそのとき、句の遠くあなたにおいて、句のあなたそのものとして、たしかに迎え入れられている。

こうして句に迎え入れられたあなたは、しかしながら、この句に留まることはできない。あなたは先へ進まなければならないし、一句はそこに居座るには短すぎる。あなたは、登四郎にとってはあいまいな誰かのまま、ここを過ぎ去るほかはない。あなたは、過ぎる。

そして、あなたは登四郎の句から湘子の句へと読み進める。あなたはこのとき、ほんとうの海へ出ることになる。あなたは沖へ、陸から遠くあなたの場所へ、枯野から遠くあなたの場所へと出る。

湘子の句の語り手は、いかなる愛も授かることなく、沖遠く、泳いでいく。

この「沖遠く」については、大きく分けて二通りの読みがありうるだろう。第一に、「愛されずして沖遠く」という言葉のつながりを強く捉えるのであれば、沖は語り手から見て遠くあなたであるということになる。第二に、「沖遠く泳ぐなり」という言葉のつながりを強く捉えるのであれば、語り手がすでに沖の遠いところを泳いでいるのだと読める。

おそらく、どちらも正しいのであって、語り手はすでに陸からかなり離れたところを泳いでいるのだが、さらにずっと遠い沖まで泳ごうとしているのだ。すでに陸から遠くあなたの場所に到達しながら、さらに遠くあなたの場所へ向かって、いまだ愛を知らずに泳ぎ続けているのである。語り手の目指すあなたは、果てしなく遠い。

そんな風にして、湘子の句は、すでにあなたに到達している。けれど、この句は、語り手とまさしく一体となって、さらにこの先のあなたへ向かって泳ぎ続けるだろう。あなたに愛があると信じて、どこまでも泳ぎ続けるだろう。

登四郎の句においては、あなたが句を通り過ぎるのだった。湘子の句においては、句があなたを通り過ぎるのである。

この二句は、読み手としてあなたが句とふれあう仕方を、あなたに示してくれている。あなたは、そのどちらも正しいと考えることができる。あなたに向けて書かれた俳句を、あなたは通り過ぎるだろう。そしてそのとき、あなたに向けて書かれた俳句は、あなたを通り過ぎるのだ。

ここで、あなたは不意に疑問に思う。それは前からあなたの頭にあったひとつの疑問だ。あなたはあなたの問いを、すなわち、いまから見て時間的にあなたである過去において、また、ここから見て空間的にあなたであるこの文章の冒頭において、読み手であるあなたに提示された問いであり、同時にあなた自身のものであるひとつの問いを、思い出す。

俳句にとってあなたとは何か。

この文章を読みながら、あなたは、おそらくそれを端的に述べてくれているのが草田男の句なのだろうという予感を抱いたかもしれない。いずれにせよ、あなたは今ついにそれを読み返すだろう。

草田男の句の語り手は、はまなすの実った浜辺から、沖を見据えている。この語り手は、登四郎の句の語り手や湘子の句の語り手とは違って、沖に何があるのか、はっきりと分かっている。そこには未来がある。しかも、まさしく今、それがあるのだ。すなわち、語り手がこの句を語るその瞬間から、この句のあなたに、未来があるのだ。

草田男の句には、読み手のあなたが今何であるのか、あるいは、過去のあなたにおいて何であったのが書かれている。草田男の句にとって、読み手であるあなたは、この未来そのものなのである。

俳句にとって、読者とは、つねに、今この時点において未来にほかならないところの何かである。俳句がつねに読者に向けて書かれるということは、俳句がつねに誰か個人ないしは複数の個人に向けて書かれるという意味ではなく、俳句がつねに何らかの未来に向けて書かれるということなのである。そして、この意味でなら、俳句はいつでもあなたに向けて書かれるのだ。

沖には、あなたには、今もなお未来がある。過去のあなたの時に、遠くあなたの場所で書かれた句に、今も未来がある。しかも、その未来とは、時間の進行方向のあなたにつねに現に在りつづける未来そのものなのである。句がもはや泳ぐことをやめてしまうまで、火が消えてしまうまで、あなたに未来が現在しつづけるだろう。読者は果てしないだろう。

過去のあなたで書かれた沖についての三句は、こんな風に、あなたに向かって書かれていた。これらの句は、俳句にとってあなたとは未来そのものであるということを、あなたに向かって、今もなお語りかけている。

ただし、このとき、これらの三句はただ未来に向かって書かれているというだけではない。これらの三句はまた、過去のあなたに向かって書かれている。なぜならそれは書かれることによって歴史の一部をなすのであり、その限りで、かつて書かれたあらゆる句と同じ列に置かれるのであるから、そこでこれらの句は過去のあなたにおいて書かれたあらゆる句と向き合うことになる。そして、これらの句自体も、書かれることによって、歴史となり、かぎりなく過去のほうへ向かっていく。過去のあなたへと向かっていく。

俳句を並べると、これらの三句がそうであったように、個々の俳句が確かにつながりあっているのを感じることができる。だが、それらの俳句はお互いを沖のあなたにしか見ることがない。
愛されず、火を焚く。今も……

個々の俳句は、あらゆるかたちであなたのほうを向いているのだが、まさしくそのあなたが遠くあなたでしかないという限りにおいて、必然的に孤独なのである。

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