2015-08-16

自由律俳句を読む 106 「又吉直樹」を読む〔2〕 畠働猫

自由律俳句を読む 106
「又吉直樹」を読む〔2〕

畠 働猫


<略歴>
又吉 直樹(またよし なおき、1980-)
タレント、脚本家、小説家。大阪府出身。
よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属。
自由律俳句集(せきしろとの共著)
『カキフライが無いなら来なかった』(2007)
『まさかジープで来るとは』(2010)
堀本裕樹とともに「すばる」で「ササる俳句 笑う俳句」を連載。
2015年、初の中編小説「火花」を『文學界』に発表。
7月に同作で芥川賞受賞。

今回は第二句集『まさかジープで来るとは』から24句選んだ。


廃校にも咲いていた  又吉直樹

何の花かは読者に委ねられている。桜であってもよいし、野に咲く花であってもいいだろう。無季である。無季であるがゆえにどの季節とも読むことができる。廃校は母校であろうか。読者はそれぞれの記憶(あるいは想像)の中の廃校をそれぞれの見たい季節で思い描くことになる。そして、このような情景の経験が有ろうと無かろうと、否応なく共感させられる。力のある句である。


隣に旅人が住んでいて今は居る  同

道を教えてくれそうな人が通らない  同

2句とも対人認知の特徴が表れた句である。
「旅人」も「道を教えてくれそうな人」も勝手な決めつけだ。ただ、人間はしばしば他者を自身に似たものとして認知する傾向がある。
「旅人」は自分自身のことでもあろう。漂泊者としての同族意識が、今は居る隣人に対して勝手な親近感を抱かせているのだろう。
また「道を教えてくれそうな人が通らない」では、全ての人を「道を教えてくれそうな人」ではないと見ている。これはすなわち、自分自身もそうであるということだ。不親切のせいか、コミュニケーションコストを高く見られるためかはわからないが、作者自身そうであるがために、自分の中に「道を教えてくれそうな人」の明確なイメージが存在しないのである。イメージが存在しないまま探しても、永遠に見つかることはない。何を探せばいいのかわからないのだから。


口笛のまま笑っている  同

長い停車が別れを気まずくする  同

黒飴しかない祖母の居間にいる  同

なんとない気まずさを感じさせる句群である。

「笑っている」のが自分であろうと他者であろうと、なんとなく不安にさせる状況だ。下の2句では、ちょこんと気まずく座っているのであろう。(見送る側であれば立っているのだろうが)
「祖母の居間にいる」のは祖母への親愛の情を読むこともできようが、私自身の経験のせいか居心地の悪い状況として読んでしまう。


空吸う  同

故で知る  同

一般的に、自由律俳句においてもっとも知られた句と言えば、尾崎放哉の「咳をしても一人」であろう。この句から、自由律俳句と言えば短律というイメージがあるように思う。
また大橋裸木に「陽へ病む」というわずか4音の短律句がある。
こうした短律について知ってしまうと、自分も作れないかと思うものだ。
上で示した2句はその4音の短律への挑戦であろうか。
「そら・すう」「こ・で・しる」(「ゆえ・で・しる」の可能性もあるが)
ともに4音である。
やってみればわかるが、難しいものだ。
音数にこだわって語を組み合わせれば作ることはできる。しかしそれはただの言葉遊びだ。
これらの句もその例に漏れないように思う。
ただ挑戦がなければ名句は生まれることもない。挑み続けていきたいものだ。


薄い手相だ  同

そのチョキはなんだ  同

沈黙が一番喧しい  同

意味深な沈黙で騙す  同

買うと伝えても店員が喋る  同

茶を呑んだ本題に入る気だ  同

影を踏まれてから体調がおかしい  同

どれも魅力的な景だ。
しかしこれらはどれも未だ「素材」の状態だ。このままでは単なる「あるあるネタ」に過ぎないだろう。
だが、句として整理すれば佳句となろうかと思う。
つまり、それだけ多彩な素材を作者が持っているということである。
私の故郷では親指と人差し指でチョキを作る風習があり、後年「田舎チョキ」と馬鹿にされたものだ。実際「あるある」と思ったし懐かしい気持ちになった。


全ての信号に引っ掛かりながら早く逢いたい
  同

独りなのは真夜中のせいだけでは無い  同

漢字は饒舌な文字であり、しばしば語り過ぎるものだ。
上に挙げた2句では、「逢いたい」「独り」「では無い」の部分が漢字の選択によって語り過ぎになってしまっている。どれも意味を限定してしまう漢字であり、作意が強く表れ過ぎている。気負い過ぎに思う。
「すべての信号にひっかかりながら早く会いたい」
「ひとりなのは真夜中のせいだけではない」
このような表記の方がよかろうかと思う。
句意自体は共感性の高いものであろう。
鑑賞者に委ねることを意識するならば、句意を限定する漢字は自ずと用いなくなるものだ。


真夜中に開けた冷蔵庫の音を聴く  同

同居人の存在を感じている瞬間であろう。
この句でも「聴く」という表記が雄弁である。しかしここでは効果的とも言える。「聞く」でなく「聴く」としたのは、音に対して意識を集中していることを表現するためであろう。
深夜に冷蔵庫を開けるのは、餓え、渇き、満たされない思いの表れである。そこにじっと耳を澄ませている様子が見える。同居人の餓えに対して責任を感じながらも、今この瞬間を為す術もなくやり過ごしている。そんな心情が読み取れる。
または、冷蔵庫を開けたのが自分自身であると読むならば、開けたものの中身が空であり、ただしかたなくその音(モーター音であろうか)を聴いている様子ともとれる。
いずれにせよ、真夜中の空虚さがよく表現された句と思う。


家にいると決めた日の夕焼けが誘う  同

美しい景である。
しかし「が誘う」は明らかに余計であろう。そこは読者に委ねてよいのではないか。


拝啓の次が書けず朝  同

数段飛ばしで迫って来る来た  同

動きのある句である。瞬間ではなく連続する時間を切り取っている。
下の句は切迫感がおもしろい。あまり好ましい相手ではないこともわかる。切り取った時間はごく短い時間であろう。見る間に近づいてくる様子がユーモラスに表現されている。
それに対し上の句は、「拝啓」を書いた時点が何時頃であったかは不明だが、おそらく非常に長い時間を切り取っている。書けない手紙の懊悩は誰にも経験があることだろう。朝までの時間は長くとも、心情としては、あっという間に朝を迎えてしまったように感じる。その長時間でありながら心理的には一瞬である懊悩を簡潔に表現している。


それ喰ったら行け  同

この句が今回の句群中最もよい。(個人の感想です)
野良猫・犬・汚い子供など、どれで読んでもいいだろう。ぞんざいで不器用な優しさが非常に簡潔に表現されているように思う。


お釣で買ったらしき物で遊んでいる  同

ささやかな物であろう。無邪気さに目を細めているのだろうか。それとも無感動に眺めているのだろうか。
昔キン消しを集めていたことを思い出す。ガチャガチャは20円でできた。おつりを全部10円玉でもらって回したものだ。
今気づいたが、自由律俳句を読むことは、ガチャガチャを回すことに似ている。まれに出会う「当たり」の経験が、回すのをやめられなくするのだ。


何の絵かは後で決める  同

句としての完成度については疑問が残るものの、今回取り上げた中で私が最も衝撃を受けたのがこの句である。
ここには作者の創作への姿勢が表れているようにも思う。
そしてそれは私にはできない「方法」である。
そこに天才を感じる。
自由律に限らず、しばしば「天才」と思える表現者に出会うことがある。
「何の絵かは後で決める」という方法は、そうした天才の口から言葉を変えながらよく語られる方法である。
ブルースリーの言う「Don't think, feel」にも通じるものだ。
私のたどり着けない境地であるように思う。羨ましいものでもある。
私の句友に中筋祖啓という人物がいる。彼はその境地にあるように思う。この人物の天才についてもいずれ触れたいと思う。


花火消えて笑い声だけ聞こえている  同

参加しない花火はひどく物悲しいものだ。彼我の明暗が明確に意識されるからだろう。しかも光が消えて暗闇になってもそこからは楽しげな笑い声が響いてくる。笑い声は他人の幸福の象徴である。夜はどんどん惨めさを募らせることだろう。
住宅顕信に「夜が淋しくて誰かが笑いはじめた」がある。この句も同じ状況であろう。笑い声、すなわち幸福とは、そうではない他者を深く深く傷つけるものでもあるのだ。


*     *     *


見てきたように、2007年当時の又吉直樹の句は、けして完成度の高いものではない。
これを自由律俳句ということに抵抗を感じる方もある(あった)ことと思う。
しかし、以前の記事でも述べたように、彼の魅力は独特の世界観を持つことである。
表現者は世界観を持たなくてはならない。
「書くべき課題」と言い換えてもいいだろう。
表現の技術、知識、精度などは意識的に経験を積めば誰でも身につけることができる。
しかし、書くべき課題、素材は自らの中に自らの方法でしか見いだすことができない。
世界とどのように向き合うか。どのように認識してきたか。
その経験が素材になっていく。
表現者はその素材に最もふさわしい表現方法を選択すればいい。
そのように考えているので、自分には表現方法へのこだわりは全くない。
自由律俳句は又吉直樹にとっては通過点であったのかもしれない。
今現在、彼の表現における最適解は小説なのであろう。
それさえもいずれは過程となるのかもしれない。表現者としての彼の今後の動向に注目したい。
重要なのは「書くべき課題」と「世界観」という素材であり、表現方法はそれを他者に示す単なる道具に過ぎない。
当時、彼が芸人でありながら芥川賞を受賞したことについて、批判的な意見や疑問(賞そのものや出版業界に対するものも含めて)を散見した。
私は上記の理由から、それらの意見を極めてナンセンスなものと感じていた。
又吉は又吉を出すために、都度表現方法を選択しているに過ぎないのだから。
また、そうした意見の根底には、「小説」を「お笑い」よりも崇高なものとする意識があるように感じた。
文学だ文芸だなどとかっこつけてみても、他者を楽しませるための道化である点で、お笑い芸人となんら違いはない。むしろそれを忘れた文芸は滅びていく定めにあるのではないか。そう思う。
当然だがこれは、自由律俳句という表現方法にも言えることである。
滅びぬためには、修羅であり、道化であることを意識しなくてはならない。



次回の予定は、「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔1〕。

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